徴兵制云々


どこぞのポピュリスト知事が
思い付きで徴兵制について発言したところ、
あたかも燎原の火の如く、
瞬く間にネットと各メディアに
反発と軽蔑を撒き散らされた。
その場のノリでこのような発言をするのは、
確かに言語道断ではあるのだが、
必ずしも非現実的な話という訳でもない。


平等主義の観点から、
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50959485.html
小飼弾氏がやや肯定的に論じておられる位で、
いわゆるリアリストを自任する人々や
あるいは軍事に関心を持つ人々は、
専ら徴兵制は非現実的と断じておられる。
http://d.hatena.ne.jp/welldefined/20071129/1196346529
『東瀛倭族拝天朝』というブログで
「徴兵は時代遅れか」と題した論考が
読まれているエントリの中では
ほとんど例外的に徴兵制も“現実的に”
取りうる選択肢の“一つ”と論じておられた。


徴兵制の関連エントリを眺めていると、
面白い事に『週刊オブイェクト』の執筆子が
http://obiekt.hp.infoseek.co.jp/peacemaker/draft_0.html
こういった否定的見解の論考を書いているの対し、
革命的非モテ同盟』の古沢克大氏が
http://military.g.hatena.ne.jp/furukatsu/20070111/p1
徴兵制も現在の軍事において
一面の合理性を持っている事を主張している。


思想を論じると非常識な事ばかり
おっしゃる古沢氏であるが、
軍事関する事になると
その博識さに舌を巻くばかりである。
少なくとも徴兵制に関する話題であれば、
『週刊オブイェクト』よりも、
説得力のある議論をしているのではなかろうか。


先の『東瀛倭族拝天朝』では、
「『志願制が常識」というのは、
 外征軍に限って云える話」なのであり、しかも、
「日本の民間防衛能力は事実上皆無で
 有事法制があることはあるが、
 実際にパニック状態の市民が右往左往する中で
 陸上自衛隊に戦争ができるとは到底思えない。
 有事における秩序維持要員という意味だけでも
 『県兵』に類する準軍事組織が必要であろう」
と述べておられる。
私見では、憲兵隊と内務省を復活させて、
治安維持及び計画的疎開
担わせたらどうだろうかと思う。
殊に警察官僚は未だに内務省に未練たらたららしく、
警察庁(警視庁だったかも)のビルに
内務省の建物の模型が飾ってあるほどだ。


徴兵制はそれ単体で論じても
さして意味のある事だと思わないが、
現実に日本では少子化が進んでいて、
若い兵士のリクルート
困難になる事が予想される。
その点において
リクルートを容易にするという意味では、
人事担当者からすれば必ずしも
非現実的な話という訳ではないだろう。


そもそも徴兵制=国民皆兵とは限らない。
戦前においても平時、
特に第一次世界大戦後の軍縮期においては、
徴兵検査の甲種合格者数だけでも
必要数より多かったので、
さらに厳選されて召集されていた。
現代でも徴兵制を実施している国でも、
籤引で選り分けたりしている。
あるいはドイツのように
徴兵免除の代わりに
ボランティア活動を義務付ければ、
安い労働力を福祉に回せる訳だから、
国家エゴイズム的には一石二鳥であろう。
もちろん当事者の若者たちにとっては
たまったもんじゃないだろうが。


「国家に心を奪われないために」
と言うのは容易いが、
個人のエゴイズムと国家のエゴイズムを
国内において如何に調整するか、
それこそ民主主義の政治家の仕事であろう。
そういう意味において
議論の自由は確保されねばならない。
メディア等の言説の揚げ足取りは
この辺で辞めてもらいたいものであるし、
また民主政治家の諸先生も
軽はずみな議論はしないで頂きたいものだ。


要するに徴兵制を実施するにしても、
どういう安全保障体制を布くのか、
対外戦略はどういうものを想定しているのか、
より端的に言えば、平時の陸上兵力を
どれほど確保しておくのかによって、
話は違ってくるのであって、
徴兵制単体で議論していても意味が無いのではないか。
殊にリアリスト呼ばれる人々は
現状維持を目指す傾向があるから、
彼らの議論にたとい合理性が大いにあっても、
状況変わればまったく無意味になる。
あるいはこの種の問題を
道徳的に論じる向きもあるが、
片や個人の良心が欠け、
片や一方は社会的関心が薄いときている。
その様な偏ったモラルや個人の良心によった所で、
反俗的スノビズムの押し付けにしかならないだろう。


追記:
最近の『論座』は釣師を志向しているのか、
目くらまし的な言説を度々載せておられる。
http://opendoors.asahi.com/ronza/story/200801.shtml
この町山智浩氏の
「日米よ、徴兵制度を復活させよ」
という論文など特集の名の通り
暴論と言う他は無い。
「チキン・ホーク」という発想は
ボヘミア生まれのちょびひげ伍長殿の存在や
ヴェトナム戦争を単に忘れているだけなのではないか。
あるいは戦前日本だって
徴兵制だった事を知らないのだろうか。


大体、軍隊経験者以外に
ノブレス・オブリージュとやらが宿らないのであれば、
この世は健常者しか健全に
生きられん事になるではないか。
第二次世界大戦を勝利に導いた
F・D・ルーズヴェルト大統領からし
小児麻痺の後遺症を抱えた身障者だったではないか。
所謂ノブレス・オブリージュというのは、
欧州の階級社会の歴史的個性のようなもので、
たとえばイギリスであれば19世紀頃まで、
もっぱら地方自治自治の財源を
地元の上流階級が担っていたという
即物的かつ具体的な内容を伴っていたのであって、
こういう抽象的な謂いはあまり適切ではない。


こういう抽象的な道徳問答は、
国家の品格』の藤原正彦氏あたりの
「武士道」論と何が違うと言うのだろう。
要するに中身がまるで無い上に、
自分でも出来ていない事を他人に言う、
知識人の悪い癖に過ぎない。
日本における保守の台頭に関して掛谷英紀氏は
「日本の『リベラル』による議論の論理的整合性が
 極めて乏しいため、その反動として保守主義
 合理主義の受け皿になっている」
とお嘆きであるが(掛谷氏自身はリベラルである)、
こういう似非モラリズムや似非合理主義は、
淘汰されていかねばなるまい。
少なくとも“徴兵制の教育的効果”
とやらによる「ニート」の懲治よりも
論理的整合性によって議論の混乱を防ぐ事は、
遥かに容易であり、また当為であり、
論者にとっての「高貴な義務」であろう。