日本近代史についての雑多な覚書


日本の「反知性主義」というものがあるとするならば、それはやはり明治時代から考えなければならないと思うが、福田恒存の評論あたりで大体片が付くような気がする。誰しもが俗物なのだと書いた「俗物論」(全集の「覚書 一」で川端康成もやはり芸術家という名の俗物に過ぎなかったなどとも書いている)、日本の文学に個人主義は定着せず、気分的信仰のあるところで近代文学(救いを求めるのが宗教であり、文学はそうではない)なんて成立しないよと書いた「個人主義からの逃避」、日本人の考え方の基調は論理とか倫理ではなくて、美的潔癖症なのだと書いた「日本および日本人」、「日本人の思想的態度」。近代論の「近代の宿命」とそれをベースに西尾幹二氏が代筆したらしい「反近代の思想」なんかも知識人論として面白い。これに『教養主義の没落』などの竹内洋先生、ベストセラーを面白い視点で読み解いた斎藤美奈子先生の『趣味は読書。』を合わせたら、面白い知識史の一面が見えるかもしれない。


「われわれは精神の力を過大に評価してはならない。逆説的に聞こえるかもしれないが、精神の自律性を信ずるがゆえにこそ、文学や思想の価値を過大に評価してはならない。少なくとも日本の近代史において文学や思想の代表的知識階級が、政治家や資本家、軍の指導者たちよりも近代的であったという証拠はどこにもない。むしろ反対に、西欧先進国の圧力をはねのけ、日本を独立国家として導いて行く困難な位置に立たされていた権力者たちの方が、知識階級よりもはるかにごまかしのきかない責任を負わされていたのであり、急速な近代化への要請を前にして、彼らは過失をゆるされない行為の一回性を引き受け、過失から生じる被害が、だれよりも先に自己そのものの上に振りかかってくる危険にさらされていた。
――中略――
権力者たちは急速な近代化を推進するために非常手段を相次いで断行するしかなく、その実行の凄まじさを前にして適応異常を起し、繊弱な神経ではついて行けなくなった一群の知的集団が発生する。それが日本の知識階級である。維新の改革期には支配階級と知識階級は未分離状態であったが、明治二十年前後に。後者の現実への不適応が次第に露呈して、二つに分離し、日露戦役を経て大正期に、日本の知識階級として独特な性格形成を完了する。それは、一口で言えば欧化主義の波に乗れなかった脱落者の群れであり、脱落や不適応をさらに徹底した永井荷風のような例外を除けば、大体は不適応を合理化し、正当化する口実をみつけ、孤立した集団陶酔の中で自己を絶対化する性格が顕著である」
( 「反近代の思想」 筑摩書房 )


結局のところ、日本の知識人などというものは、時代を主導したことなど一度もなく、目立って見えるのはただ混乱していたが故の逆説なのではないか。若い頃の西尾氏はかなり尖がったものを書いていたようだが、最近の氏は口舌が激しさを増すほどに挫折感を露呈しているように見える。氏は元来反時代的に生きられる人ではなかったのだと思う。そういう意味で、氏のことを挫折した“アカデミスト”と評したわけである。現実や時代に斥けられ続けた反時代的ポレミカー福田に、挫折感をあまり感じないこととは対照的である(福田の晩年の随筆「言論の空しさ」に、我輩はむしろ福田の強さを見る)。


ただ、福田にしても言えることだが、知識人と権力者の対立に焦点をあてすぎて、両者の内部をやや単純化し過ぎているきらいがある。さらに単純化した歴史観である、皆同じ坂の上の雲を目指したというのが、明治の理解として人口に広く膾炙しているのであるが、木戸孝允は「万機公論にて決すべし」の公論政治を目指し、大久保利通は殖産興業、山県有朋は強い軍隊と、実際にはばらばらだった訳である。それらが結果として全て上手くいったのは結果論に過ぎない。


奇妙なことに日中戦争から対英米戦争を語る時ほどに、我々は悲壮感たっぷりに日清、日露の戦役を語らないのであるが、日清戦争前、極東で最強の海軍を持っていたのは、イギリスでもなく、ましてやロシアなどではなく、北洋艦隊有する清だったのである。GDPの推定値にしても日本は全く及ばなかったのであって、即時開戦を主張した民党に比べて藩閥政府の方が、はるかに慎重な政策決定を行っていた。さらに初期議会の捩れ状態と混乱が、事態をややこしくしており、戦争中に選挙などをやっていたために、清の外交官などはこれなら勝てると思ったようである。甲午事変によって派兵した第二次伊藤内閣は、当初日清共同で朝鮮の内政改革をやろうと思っていたようだが、主戦論が過熱していた議会では内閣弾劾上奏案が提出され、衆院解散に追い込まれており、山県はこれを機に憲法を停止に追い込もうする。憲法停止論が出るに及んで「暗中飛躍」、伊藤は対清開戦を決断する。これが日清戦争に関する決定的著作と評価される高橋秀直日清戦争への道』(東京創元社)で、「護憲のための戦争」と称される所以である。


ところで、どうでもいいことだが、ウィキペディアの「日清戦争」の項目の指揮官というのは何なのだろう。「山県有朋 対 李鴻章」ってプロレスじゃあるまいし。大体、大山巌、川上操六の薩派陸軍の巨頭二人が健在なのに、山県が単独で戦争指導など出来るわけがなかろう。変なテンプレのせいもあろうが、執筆子が何を考えてあんな頓珍漢な記述をしたのか素人ながら理解に苦しむ。山県がいわゆる山県系官僚閥(長州出身者以外も多く居るのでそう呼ばれる)を構築できたのは、日清戦争後、薩派陸軍のリーダーだった川上操六が若くして亡くなったことが大きい。薩長閥とは言うものの、明治初期において圧倒的に強かったのは薩閥なのである。幕軍との戦争や内部抗争で疲弊していた長州と違って、力を温存していた雄藩中の雄藩薩摩が、幕末においても、明治においても、維新の中核を担ったことは当然の結果であろう。


デモクラシーについての思索覚書のための前書として近代史について書いたのだが、思ったより紙幅が膨らんだので単体であげることにした。率直に言ってアメリカ史に関しては、我輩のエントリなんぞ読み棄てて、参照として掲示したブログの全エントリを読んで下されば、ほとんど事足りるのではないかと思う。学識、文章ともに我輩などより遥かに深い。はてなのブックマークを見ているとあまり読まれていないようで、実にもったいないのでここまで読まれた方は是非読まれたし。


ただ、言及して頂いたブログなどを読んで、あらためて指摘しておきたいのは、ド・トクヴィルを引いて我輩が言うデモクラシーというのは、政治構想や制度ではなくて、ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で示した「社会状態」としてのデモクラシーの方である。だから、我輩はギリシア、ローマの古典時代のデモクラシー的諸要素をほとんど評価しないし、そもそもアメリカの建国者たちからして、古代ギリシアやローマというのは反面教師として存在していた。F・ハイエクの「自生的秩序論」を政治学としてほとんど評価しないのも、連邦憲法とそれに創出された政府というのは明らか人為的産物だったという事実を重く見るからである(それは日本の明治憲法にしても同じである)。つまり、ここでいうデモクラシーとは社会における平等化についてなのだが、オルテガの『大衆の反逆』において示された平準化に繋がる話なのではないかと思う。そういう意味で、オルテガの『大衆の反逆』を単なる大衆断罪の書として読んではならないのだと考えている。アマルティア・セン博士の本を読むと、社会的基盤としての「平等」は自由な近代社会に不可欠な要素なのではないか、自由を至上と考える人々は機会の均等をあたかも自然状態であるかのように扱ってしまっているのではないか、そういう疑念が膨らむ。これらに関してはもう少し考えを深めてから記したい。