見聞読考


見る、聞く、読む、考える。そして、徒然なるままに筆を走らす。


●民主と専制


「司法とは、具体的な争訟について、法を適用し、宣言することにより、これを裁定する国家作用」と定義されている。法学入門書ぐらいしか読んだことのない素人の我輩でもウィキペディアから引いてくる以前に、聞いたことくらいはある定義である。本館で契約説について書くために色々読み直していると、少なくともロックからカントに至るまでは、立法権と行政権が一体化しているものを専制と呼ぶことでほぼ一致している。ロックの権力分立論において司法はどちらに入るかはっきりしない面があるのだが、これは我輩の読んだ感じでの話でしかないが、法の執行という意味で行政権と司法権を区別する必要を感じなかっただけの話なのではないか。


ウィキペディアの行政の定義などを見ても、かなり消極的な、立法的作用と司法的作用を除いたものとあるのだが、実際には拡大する行政権から、職能的に限られているが故に次第に独立していったと見るのが妥当ではなかろうか(――そもそもロック自体の国家観が、諸個人が契約した諸共同体の紛争を調停するものであって、行政権が肥大化する以前の社会において、司法の占める位置というものは大きかった。それは日本の町奉行などにも言えることだろう)。


つまり、ロック系統の権力分立論というのは、「命令(執行)」と「法律(立法)」の分離を“厳格に”行ったものであり、これらにいわゆる民主的統制というものはそもそも必要とされるのであろうか。仮に立法が優先されるのであれば、もとよりそのようなものは必要としないだろう。少なくとも制度としてのデモクラシーにおいて、我輩は自治的要素のみを強調する。即ち、自らを治むる法を作るにあたっては、万人がそれに参加する権限を有すると。つまり、双方向性のない法は命令に過ぎず、(少なくともデモクラシーの国においては)法の名に値しない。


憲法とデモクラシーの関係もややこしいが、もっとややこしいのが「主権」という概念の存在である。立憲主義以上に、この「主権」なる王権の残滓は、デモクラシーと相性が悪い。対外的な意味はともかく、「主権」などというものが果たして必要なのであろうか。我輩はこの概念に王権神授説的いかがわしさ、胡散臭さを覚える。


ブログ界


何事も揉め事というのは付き物だが、ブログの揉め事を巡って、何やら騒がしいようである。道徳(原理)と技術的な話(システム)は分けて考えるべきだと思うが、その点、今回のコメント承認制をめぐる論説はあまり説得的ではないように思う。人気のあるブログは外野として眺められる部分だけでも、いわれのない言い掛かりや罵倒を受けているのが分かるのだが、それでも道徳的に物事を語る際には慎重にならねばならない。批判と品位を保つことは両立が難しく、また、他人の批判に対して応えるのもまた難しい。我々はよく真意だとか、動機などというものを重要だと考えるのだが、そういう考え方は本質主義の泥沼に嵌る。行為において「人格」が要請されるのは、自らに返る時、つまりは責任においてのみ可能であろう。動機は行為の誘発性、即ち未成の時点、可能性の段階においてのみ有意義でありえる。動機は契機的なものではありえても、想起的なものではありえない。


「人間は独りで部屋に居続けることが出来ない悲惨な動物だ」という風なことをのたまったのは、パスカルだったか、それともモンテーニュだったか。ブッタ式に「犀の角のように独り歩め」だと、ブログ云々以前に社会的営為が不可能になる。純粋な個人というものは存在しないし、同様に純粋な集団意識というものもまた存在しない。にもかかわらず、我々はそれを両立させねばならないのだが、土台そのような試みはもとより不可能なのであろう。要するに、個人も、集団意識も現実として存在しない。それらはあるべきものとして、継起を促す理想としてのみ存する。自己意識は「自己」を客体化し、対象としてのみ把握する。意識においては「自己」も「他者」の範疇におさまる。