言わずもがなのこと


舌禍というものがある。言わずもがなのことをもったいぶって書いた挙句、文章の下品さから蝿を寄せ集めてしまう。読まれて困ることを書く方が悪いのか、言わずもがなのことを重ねる愚か者どもが悪いのか。そうしたものを相対化すれば、客観的に物事を見ることができるという思い込みは一層性質が悪い。


世情騒がしいようであるが、人格が破綻した男の過去など振り返って、一体何になろうか。どうして動機などという曖昧なものを深刻に受け止めるのか。破綻した人格に一貫した悪意などありはしない。あるとすれば逃避だけだ。手に持つものだけが凶器なのではない。その身を凶器として投げ捨てる人間こそが真に危険なのだ。自らを尊く保たないものを慮ったところで何になろう。愚者の理由を見出し、意味付けることに何の意味があるというのだろう。


記憶と記録との距離が狭まっている。個人的な記憶を共有する道具を得たためである。多くの視聴者画像とやらが提供されているようで、そのことに対して批判する声も少なくない。なるほど、確かに品の良い行為ではない。しかしながら、我々はどこで線引きをすべきなのか。プロのカメラマンと素人のカメラを隔てる道理などあるのだろうか。さらに言えば、我々は語るべき、伝えるべき事柄というのは、一体、何を、どこまで指すのか。


何事も自制心というものが必要であるが、自制も行動も恣意的要素を免れえない。行為することも、しないことも、主観的判断には変わりない。行為に人格は付きまとう。しかし、制度に人格は必要なのだろうか。制度に人格を認めることは、制度内に恣意を認めるのに等しい。我々はあくまでも人間的なものとして制度を作るのか。それもまた一つの選択肢ではあろう。しかしながら、善意であれ悪意であれ、そのような恣意的要素に振り回される制度が、果たして良い制度と言えるのだろうか。行為から人格を剥奪しない限りにおいて、制度は非人間的であるべきではないだろうか。


理由や動機はあくまでも内在的、内発的なものであって、それ自体は他や全体と結びつくことが無い。行為のみが我と他を、個と全体を結びつける。良心はどこまで行っても良心に過ぎず、倫理はどこまで行っても良心にたどりつくことはない。元来両立せねば成り立たぬ性質のものを切り離し、倫理的に語るべきものを良心に、良心が語るべき問題を倫理に語らせる。しかし、全体を配慮しない良心がどうして道徳的足りえるだろう。個の良心を顧みない倫理がどうして人間的でありうるだろうか。人間は良くも悪くも人間なのである。人間が人間であることを忘れる。これほど傲慢な考えはありはしない。

秋葉原っていう街そのものが、色々な意味で単なる消費の場ではなくなっていて、そこが一種の”劇場”になっている。やっぱり、いま若者たちにとって文化の中心といえば秋葉原であり、社会に復讐するとしたら秋葉原で事件を起こすのがいい、とたぶん彼は考えたんでしょう。そう思います。


やっぱり、僕たちの社会の中に、こういう不満を持っている人たちが一杯いると。で、そういう不満を持っている人たちを、どうやって救っていくかということを考えるべきなのであって、秋葉原の治安を強化しても、たぶん問題の解決にはならない。自分がこの世界に居てもいいと思えなかった、そういう屈辱感を与える社会になっている。僕たちの社会は。で、そのことを、僕は、もっと真剣に考えた方がいいと思います


このようなことをNHKのニュースで哲学者と紹介された人が言っている。自暴自棄になった人間の行動に意味などない。神に定められた生を全うすることを拒絶して自殺した人間のことを“自由な”人間というようなものだ。劇場などというようなものでどうしてありえるだろうか。彼だけの劇場に何の意味が我々にあろう。我々がそれに付き合う道理がどこにあろう。ただ自らが知っている一番賑やかな場所、対象を見つけやすい歩行者天国、あるのはそういう“条件”と“状況”だけだ。死者の存在と殺人を同一視してはならぬ。不条理と愚行とを一緒くたにしてはならぬのだ。


神仏を信じぬ時代にあって、世界は存在する場所などではない。意識が放り出される場に過ぎない。劇場などというものがあるとするならば、それは世界そのものであろう。我々はそれを自ら設える訳にはいかない、ただ演じるだけだ。意識する彼は世界と一体化しえないのである。どうして救いなどというものがありえよう。救いは神の仕事だ。社会も哲学も救いを与えるような性質では断じてない。そういう真似事はそれをする人間にとって居心地の良い場所を与えるだけの意味しかあるまい。