血盟団事件

やら何やらと抜かす連中がわんさか湧いて来るんだろうなあ。或は、一件目の段階、はたまたそれ以前に、こうなるのではないかと危惧してました、などとほざく破廉恥な占い屋の類など。まあ、確かに、一件目だけなら単なる「ものとり」の可能性も否定できないが、もう一件あるとなるとそういうのを疑いたくなるのも無理は無い。


テロと自殺の類は最悪にして最高の自己主張であり、多くは遺書や犯行声明のかたちで表される。果たして、今度の事件はどうなのだろう。単なる怨嗟、逆上の犯行って可能性も否定出来ないと思うが(――要するに良くも悪くも“思想性”が無い、つまりは「確信犯」では無いという可能性の事だが) 。


何にせよ、殺されたものには何の関係も無い。我々とて同じだ。「確信犯」をその思想で捉える事ほど、テロを肯定してしまうものはあるまい。我々にとっては単なる一つの事件であり、一つの犯罪でしかないそれは、ただ粛々と法によって裁かれる対象に過ぎない。それ以上を求める事は、時に狂気じみた倫理を人々に強制する。そうした倫理は、諸個人の良心を無視し、踏み躙る。(時に「空気」などとも呼ばれる)それは、たとえ“倫理的”であったとしても、自由な社会には相応しいものとは思えない。


先の秋葉原の通り魔事件のように、“深読み”合戦にならなければよいのだが……