デモクラシーとその歴史に関する思索と覚書

記録的なものを淡々と記していれば、その内また長い物を書く気力がわくと思っていたが、時間が経つのは早いもので、カレンダーの空白が長引いてしまった。書き掛けで放置された没エントリの山を築いては、それを崩すように書いてきたので、その内、まとめて更新できるはず。


さて、「デモクラシー」についてである。この不思議な言葉は他の多くの概念を貪欲に包摂してきたが、それ故にそれ自体がかえって捉え難いものになってしまった。「『タメグチ』的ガバナンスの歴史」(http://www.tez.com/blog/archives/001301.html)というエントリを、はてなブックマークのお気に入り経由で知ったので、これに関して歴史的な見地からのツッコミを入れつつ、叙述してみたい。


情報処理の話は無知故によく分からないのだが、歴史や政治に関しては、我輩のような読書家レベルの知識でも明らかにその間違いを指摘できる。まずは「ヨーロッパにおいては大昔から「最高権力者を『会議体』や『法』で縛る」という発想が、何度も繰り返し歴史に登場するのに対し、日本を含むアジアでは、そうした体制は社会の混乱期などの非常に「例外的」なケースに限られるのは間違いないのではないでしょうか」という疑問に対して。


日本はおろか、“専制的”と目されやすい前近代の支那などの大陸諸国においても、それは必ずしも例外的な事ではなかった。故坂本多加雄は『歴史教育を考える』(PHP新書)において、近代憲法だけを視野おさめた議論を批判して、憲法とは文章にされて制定されているか否かといった体裁の問題を問わず、国家の根本制度であり、国のあり方として人々に思い浮かべられている内容を指す」のであり、「この意味での近代国家でなくとも必ず存在し、国家の歴史を規定している。日本の歴史を眺めて、武家政治までの根本原理が何であったかを考えれば、やはり基本的には律令体制であったと言わざるをえない」と指摘している。要するに、この律令によって、少なくとも政治は法に則って行われるべしという規範が生じたのである。そして、言うまでもなく、日本の律令体制の大元を辿れば支那に行き着く。即ち、法家の思想である。再び日本史を顧みれば、こうした法治の思想はその後の武家政権においても、鎌倉時代の「御成敗式目」から、江戸時代の「武家諸法度」、さらには天皇の主務すら規定する事となった「禁中並公家諸法度」に至るまで、長い歴史を有するに至った。


ところで、そもそも「専制」とは何であるのか。思想史においては文脈に沿って理解されるべきものであるが、その文脈に沿えば、少なくとも近代政治思想史(I・カント前後)において、それは立法権と行政権が一体化した政体の事である。カントや彼の同時代人が「共和政」或は「共和主義」と言う時、それは単純な「反王政」の意ではなく、それは立法権と行政権が分離した政体の事を指している(――したがって、多くの共和主義者は「政党」に対して甚だ否定であるか、あるいはそれを無視していた。また、A・ハミルトンのように共和主義者であっても、終身の大統領制を支持するような例もある。なお、ハミルトンは大統領の終身制導入には失敗したが、最高裁判事の終身制を保持させ、憲法に大統領の多選禁止条項の導入するのを阻止している)。そういう意味において、為政者が自ら定めた法によって政治を行う事に、専制的な要素が皆無な訳ではない。しかしながら、日本史を紐解いた際、そこにあらわれるのは合議をよしとする規範文化である。貴族の時代においては、「参議」という言葉が表すように、政は朝議において行われ、また武家政権においても、鎌倉幕府評定衆から、江戸幕府の年寄衆に至るまで、合議制を中心にしていた(参照:佐藤進一「合議と専制」)。強権を恣にふるった為政者が居なかったわけではないが、少なくとも安定期においては合議を基本とし、そうした流れが、明治維新の「万機公論をもって決すべし」に結実している(――なお、本朝は平安末期から江戸期に至る数世紀間、小休止を挟んでは延々と内戦に続く内戦に明け暮れるという、世界的に見ても実に好戦的な民族であった)。


次にヨーロッパ史について考えてみる。「マグナ‐カルタ」は近代の憲政の思想によって美化されがちであるが(――それは国際法において「ウェストファリア条約」が誇大視されがちな事に似ている)、単純化して言えば、それは王権と貴族の抗争であり、結果である。そもそも、征服王朝に端を発する英国王権は極めて強大であり(――それまでの土着の勢力をほぼ一掃しているため)、その後の名誉革命に至るまでの英国史は、国王(国王大権)と貴族(議会特権)の権力争いを基調としていた。さらに言えば、名誉革命後もジャコバイトの乱などによって政権は不安定であり、一八世紀が終わりになろうという頃になっても、ジョージ三世のように国王親政を復活させようと企んだ国王も存在した。第二次大戦後においてすら、政治的混乱から国王が仲裁に入る格好で、明治憲法のように大命降下式に成立した内閣が存在する。


科学の進歩から、原始社会について得られた知見から民主主義を論じる向きがあるが、実のところ、これは科学が進歩する以前に存在した。名誉革命後の英国史における所謂「古来の国制」の議論である(――十九世紀以降には、悪しき優生学徒がチュートン民族なるものを思い付くに至る)。簡単に言うと、ノルマン・コンクェスト以前の古代アングロ・サクソンの時代に自由な国制が存在したという主張である。議会特権と国王大権が対立する中で強化された概念で、つまるところ、議会の権利が国王大権に対して先取であり、優先されるべき根拠とされたものだ(――「マグナ‐カルタ」が大いに称揚されたのもこの兼ね合いである)。これに対して批判的な見解を示したのが、幅広い分野で業績を残した哲学者D・ヒュームである(――ヒューム曰く“昔、国王に対する抑制は、庶民のうちにではなく、封建諸侯の手のうちにあった。国王がこれらの党派心の強い暴君を押さえつけ、その結果、法律の施行を強制し、臣民がすべて等しくたがいの権利、特権、および財産を尊重しなければならないようにするまでは、人民にはなにひとつ権力はなかったし、自由さえもほとんどあるいは全然なかったのである”「党派の歩みよりについて」『デイヴィッド・ヒューム研究』御茶の水書房から孫引き)。この辺の事情は「勝利したアナクロニズム(1)」(http://blog.goo.ne.jp/william1787/e/4d4a55cdb1e1554350f66edabe217e7b)「勝利したアナクロニズム(2)」(http://blog.goo.ne.jp/william1787/e/6fbae6f127c1e52854f04a3cad8ceeff)というエントリが詳しく面白い。なお、ヒュームはトーリー史観の歴史家と見られがちであるが、上記の『デイヴィッド・ヒューム研究』などを通して、彼の歴史観を見る(――残念ながらヒュームは邦訳書に恵まれておらず、未訳も多く、既存の訳本も古い)と、名誉革命自体には否定的な見解を示して居らず、近代(名誉革命前後)に入って「新しい自由」が獲得されるようになったという見方は、一種の発展史観となった十九世紀のホイッグ史観にむしろ近いように思われる。今日、保守主義者としてばかり良くも悪くも見られがちなE・バーク(党派的にはホイッグ)にしても、人民が緩やかにこの「新しい自由」を獲得していく事に肯定的だった。ただ、彼等は歴史的な経験に沿って広がっていくべきだと考えた(ヒュームと彼の友人であったアダム・スミスは、市民の自由を守り、促進していくのであれば、フランスは絶対王政で別段構わないじゃないかとすら言っている)のであり、特にバークにとっては名誉革命が旧き良き国制を回復するものであったの対し、フランス革命がそれを破壊するものに見えたのである。


我々は兎にも角にもヨーロッパの歴史と、それが生み出して来た価値に対して過大な評価を与え過ぎている。ここで何も「アジア」とか、「アジア的価値」などという、まったく根拠も実体も無い価値観を掲示しようとするのではない。しかし、同様に「ヨーロッパ」や「ヨーロッパ的価値」なるものも疑わしいと言いたいのである(――そのようなものは冒険家たちが原住民を狩の対象として遊ぶとか、頭蓋骨を計測してより猿に近い黒人は白人に比して劣等であるとか、そういう類の十九世紀的な傲慢と偏見、迷妄が見せた錯覚、裏返されたオリエンタリズムに過ぎない。せいぜい地理的な概念、即ち周辺国の関係の濃淡程度に過ぎないものであろう)。もちろん、ヨーロッパの諸国家、諸民族が歴史的に時間を掛けて形成してきた「自由」や「平等」、「デモクラシー」などの諸原理の普遍性を疑うのでもない。しかしながら、それらの諸概念は、極近代に至ってはじめて定着したのに過ぎない。普通選挙に限って言っても、定着したのはここ一、二世紀の出来事でしかない。つまるところ、これらは歴史の問題ではないのだ。必然や普遍性などといったものが歴史的にあるわけではない(――ヘーゲルやF・フクヤマは歴史に目的[End]があると考え、だからこそ彼等は「歴史の終わり」を想定出来たのであるが、そのようなものは存在しない。「歴史の終わり」などというものがあるならば、それは歴史が定向的な発展を遂げるという歴史観の終わりに過ぎない。つまり、現代史は良くも悪くも「方向性」、ヒューム風に言えば「新しい自由の計画」を見失ってしまったのだ)。人間の制度もまた進化論のように試行錯誤発展してきた、その論理における普遍性に過ぎないのである。


少々疲れたので、本文として仕立てずに、散漫にいくつかツッコミをば。人口と民主主義の関係については昔から指摘があり、例えば、ジェファーソンの民主主義は農本主義と結び付いていた。しかしながら、ヨーロッパにおいて爆発的に人口が増加した十九世紀にかけて、民主主義(というよりは参政権の運動)は盛り上がりを見せ、一定の結果を生み出している。近代化によって爆発的に人口が増加し、近代化がある程度定着し、特に女子教育及び社会進出に伴って出生率は低くなる傾向がある。同様の事が日本や他の近代化にある程度成功した国についても言える。


「原始キリスト教が「西向き」(ヨーロッパ方面)の布教では圧倒的な成功を収めたのに、「東向き」(アジア方面)の布教では、(ネストリウス派キリスト教景教)の時代から、コンタクトはあったにも関わらず、)成功しなかったのか、ということも、すんなり納得できる気がします」に関しては、価値観というよりは地政学上の理由の方が大きいと考えられる。三世紀以降はササン朝ペルシア、七世紀以降はイスラム帝国が成立しており、これらの地域での布教は難しかったからだ。それ以前に関しても、元来、原始キリスト教は必ずしもユダヤ教から分離しておらず、ローマ帝国内のユダヤ・コミュニティを介して広がっていった点が大きい(参照:田川建三『書物としての新約聖書』)。アレクサンドロスの帝国の影響で、ギリシア人コミュニティは現在のアフガニスタン周辺にまで存在していたようだが、アレクサンドリアの虐殺事件(――ギリシア人によるユダヤ人虐殺事件。この事件によって、ユダヤ人コミュニティはかなりの打撃を被っており、キリスト教の南伝の記録がほとんど残って居ないのも、この事件の影響が強いのではないだろうか)にあらわれたように、ギリシア系とユダヤ系は帝国内においても対立しており、ササン朝ペルシアの進展以前においても、布教の幅は限られていたと考えてよいだろう。なお、あまり知られていないのだが、今日の韓国で最も信仰されている宗教はキリスト教である。


「『もし、アメリカ大陸が日本の近くにあったら』で、『仮に新大陸がアジアに近かったとしても、新大陸に自由を旗頭にするアジア人の国家が建国されることになったとは思えない。』」という点に関しては、「インディアン」と呼ばれたいわゆるネイティヴ・アメリカンの諸部族を思い出してあげて欲しい。チェロキー族のように積極的に欧化する事で、アメリカ合衆国の中で生きようとしながら拒絶された悲劇だけではなく、コロンブス来航以前から一種の連邦制をつくり上げ、独自の政体を営んでいたイロコイ族(――必ずしも支持している訳ではないのだが、近年、アメリカの連邦制の元ネタなのではないかという研究も出ている。参照:ドナルド・A・グリンデ・Jr./ブルース・E・ジョハンセン『アメリカ建国とイロコイ民主制』)のような例もあり、確かに今日のような合衆国にはならなかっただろうが、別の発展を遂げていただろう(――ちょうど、本朝において黒船が来なければ、江戸幕府が良くも悪くも未だに続いていたかもしれないように)。