天城忌


憲政記念館に最近「尾崎行雄メモリアルホール」が出来ていたが、
我輩はむしろ我が国の「憲政」史上、
最も讃えられるべきは斎藤隆夫であったと思う。
(嘆かわしいことにはてなのキーワードにすら登録されていない)


確かに尾崎の
玉座を以て胸壁となし
 詔勅を以て弾丸に代えて政敵を倒さんとする」
のくだりで有名な桂太郎への指弾演説
(演説中桂首相に対して指を拳銃のように向けた)
は格好良いのだけれども、
当時の法制上問題のある演説で、
演説中、原敬(後首相)は頭を抱えていたらしい。


大正デモクラシー」という言葉で
我々が思い浮かべる人々は、
――吉野作造大隈重信尾崎行雄犬養毅らなど――
確かに面白い事を言っていたり、偉業を為した人ではあるけれども、
彼らの内に一貫性を保てたものは一人とて居ないのである。


吉野はコロコロと言説を変える人であったし、
大隈は良かれ悪しかれポピュリストであった。
大隈は確かにすごい人ではあると思うが、
彼の「対支21カ条の要求」は日本外交史上の
最大にして最悪の汚点であった。
泥沼の日中戦争の遠因を作ったと言って過言ではない。


潔癖に見える尾崎にしても、
犬養にしても古くからの政党人であったが故に、
あまりに古臭い野党的性格を帯びていて、
お世辞にも建設的な言説をしたとは言い難い。
尾崎に至っては桂倒閣時に薩派(軍の反主流派閥)
に接近して超然内閣成立をさせようとした人なのであって、
彼は必ずしも原理原則という意味での憲政の人ではなかった。
もちろん、昭和の軍部支配に敢然と立ち向かったことは
素晴らしいことだと思うし立派なのだが、
あまり誇大に英雄視すべきではないと思う。
皮肉なのは昭和期において最も軍部に批判的だった
民政党斎藤隆夫も所属)を作ったのは、
尾崎が倒した桂太郎その人であった。
(いわゆる桂新党の立憲同志会


ところで、大正デモクラシー
支えたものは何であったのだろうか。
少々、突飛に聞こえるかもしれないが、
それはおそらく「成金」と「やくざ」ではないかと思われる。
欧州の大動乱によって生み出された特需の結果、
大正バブルが起こったが、
こうした新興の富裕層というのは、
所詮成り上がりものに過ぎず、
社交界や上流社会からはつまはじきにされていた。
こうした旧来の名望家支配の打破が、
一つの形となって現れたのが
実のところ「普選運動」なのである。
要するに大正時代には、
ホリエモンみたいなのがゴロゴロ居たわけだ。


一方でやくざは興行を取り仕切っていた関係で、
庶民の顔覚えや受けが良く、
選挙に打って出る人たちが居たのである。
小泉首相の祖父又次郎氏がなどがその例で、
元々政党の草創期からやくざと政党は
切っても離せぬ関係柄だった。
(草創期に至っては武装した壮士が
 選挙事務所の防衛に当っていたり、
 選挙のたびに流血沙汰が起きていた)


旧来の名望家支配からの脱却というのは、
実は斎藤隆夫にも当てはまる図式で、
彼は今で言うところの「草の根民主主義」的な、
青年会を結成したりして、
その強固な地盤の上に政治生活を送っていた。
彼が後に非推薦で当選できたのには、
こうした地道な積み重ねがあったからである。


なお、こちらに斎藤先生の著作が公開されている。
  http://blechmusik.xrea.jp/d/saitou/
  公開経緯についてはこちらに説明があった。
  http://d.hatena.ne.jp/blechmusik/20070826#1188145852
面白いのにあまり読まれていないようなので、
是非一度読んでみて欲しい。
憲法は覚書だ何だ素人が玄人面して語る、
社会学者崩れよりは余程中身があって筆に力もある。
殊、反軍演説の後、議員を除名された時代のものは、
議会人としての尊厳と明治憲法体制の精髄がある。
蓋し議会が斎藤隆夫を除名した時に、
政党は自殺し、議会は死に、明治憲法体制は崩壊したのであろう。
帝国憲法を損なったのはGHQではなく、
むしろ日本人であった。
GHQの手を借りる前に死んでいたのだ。
それが憲政史においては悔やまれて仕方が無い。