知識人と刃物


今昔を問わず、
知的な影響を受けやすい人々というのは、
新しい言葉や概念が好きなようである。
その様子はあたかも
初めて小刀を持った子供のようで危なっかしい。
万能ナイフのように何でも切れると思い込んでいるから、
刃がどんどん欠けていく。
始末が悪いことに当人にはその自覚が無い。


ケーキを斬るにはケーキ用のナイフが良いし、
ごはんを食べたければナイフやフォークではなく、
箸を使った方が楽だ。
ところがこの頃と言わず、
感化されやすい人々と言うのは、
何でもかんでもそれで始末が付くと思い込んでいる。
「メタ」「メタ」唱えていれば、
何となく文学的な気分が味わえ、
再帰的」「再帰的」と唸っていれば、
それとなく社会学な理解が得られたかのように思っているようだ。


パンを無理やり箸で食おうとする頑固者が
国粋主義者」と言うなら、
この飯をフォークで食おうとする無粋な連中は
何と称すべきであろうか。
前者は後者を軽々しい奴と思い、
後者は前者を程度の低い連中だと思い込んでいる。
しかして、これを五十歩百歩と言わずして何と言うか。


物の前に物をどうにかする道具を
彼らは事前にこさえているのであろう。
彼は物を見てなどいないし、
彼らにとって、現実に、目の前にある物はどうだっていい。
これでは物や彼に教わる余地など何処にもない。
要するに彼は言葉の辻斬りなのだ。
切捨て御免という訳である。