竹内好「近代の超克」


「近代の超克」関連の本を趣味で読んでいるのだが、
やはり竹内好のものが一番読んでいて面白い。
要するにアジアにおいて思想枠の不在は
ごく“普通”のことに存するのにも関わらず、
西洋思想との接触との結果、
(それは特殊ヨーロッパ的な思想枠に過ぎない)
独自の思想を作り上げようとして破綻したのが、
「近代の超克」だったのかもしれない。
つまり、竹内がアポリアと記しているものだが、
文革に飛び付いてしまった竹内好自身にも、
日本における思想史全体にも
こうした事は言える事であろう。
(右翼の場合は「天皇」に収斂してしまう)
以下、要約メモ。


「近代の超克」は、固有の意味では、雑誌「文学界」が1942年9,10月号にのせたシンポジウムを指す。これは翌年、単行本として出版され、この催しによってシンボルとして定着された。しかし、著者の考えでは、シンボルとして定着されたことが、シンポジウムの主催者なり参加者なりが、「近代の超克」をとなえ、あるいは推進した、ということと直ちに一致しない。出席者たちの思想傾向は多様であり、日本主義者もいれば、合理主義者もいて、「近代の超克」という出題をめぐって各人各説を述べ合っているが、結局「近代の超克」とは何かを明らかにされていないからである。だからこのシンポジウムの記憶だけから「近代の超克」という思想の内容を抽出することができない。また、戦後は「悪名高き」という枕詞をつけることが慣習化されているほど悪玉あつかいされているが、不思議に思われるほど思想的には無内容である。


 「近代の超克」と同時期に戦後「悪名高き」と評された座談会があった。西田幾多郎田辺元に師事した京都学派の哲学者、歴史家によって行われたもので、1941年から42年にかけて前後3回「中央公論」に掲載され、座談会の名をとって「世界史的立場」あるいは「世界史の哲学」という。これは「近代の超克」とならんで当時の知識人たちのシンボルの機能を果たした。その思想内容ははっきりと抽出でき、「近代の超克」を意味補足することができる。また、その思想内容は多くの共通点を持ち、連関があるため、並び称されるのが普通であるが、両者には若干の差異があり、それがシンポジウム「近代の超克」を失敗に導く原因の一つになっている。


 「近代の超克」は事件としては過ぎ去っているが、思想としては過ぎ去っていない。一つは、それにまつわる記憶が生き残っていて、事あるごとに怨恨あるいは懐旧の情を呼び起こすということ。もう一つは「近代の超克」が提出している問題のなかのいくつかが今日再提出されているが、それが「近代の超克」とは無関係に、あるいは関係をアイマイにして提出されているために、問題の提出そのものがマジメに受け入れられない心理の素地を残しているということである。そして、各人の考えている「近代の超克」の意味内容は一定していない。それは亡霊のようにとらえどころがなく、そのくせ生きている人間を悩ませている。


 この「近代の超克」の意味内容の捉え方を3人の意見から比較している。一人目の仁奈真は「近代の超克」そのものが直接に知識青年を死へ駆り立てたと考えた。これは怨恨の情の代表であり、著者も受難者の怨恨は避けては通れない、仁奈の怨恨ももっともだとしている。しかし、彼のような若者によって熱心に「近代の超克」や「世界史的立場」が読まれ、心の支えになっていたのは事実であり、これはかつての心の支えであったものに対する「逆うらみ」の転向者心理であるとした。第二の小田切秀雄の意見はより理論的である。彼によれば、太平洋戦争下に行われた『近代の超克』論議は、軍国主義支配体制の『総力戦』の有機的な一部分たる『思想戦』の一翼をなしつつ、近代的、民主主義的な思想体系や生活的諸要求やの絶滅のために行われた思想的カンパニアであった。著者はこの定義を評価しつつも、そういう解釈は「近代の超克」の復権要求に対して説得的に否を主張できないと保留を入れている。第三の佐古純一郎は「近代の超克」の試みからマイナスの面だけを批判する一部論者のやり方には賛同しがたいとした。これは懐旧の立場である。第二と第三の意見は、価値観はまったく反対であるが、イデオロギー批評である点は一致している。前者は体制とイデオロギーが密着不可分であると考えるとのに対して、後者は体制を思考の通路に入れていない。つまり、後者においてはイデオロギーの自覚は無い。著者は価値観こそ違えど、小田切のようにイデオロギーと体制を密着不可分のものとは考えていない。また、イデオロギー論は、対立する相手を屈服させてこちら側へ転向させるのが究極目的であり、これが思想闘争である。この「近代の超克」の復権論と撲滅論が思想闘争を行うことは有益であり、それはげんに行われており、今後も続くとした。


以下個別論については略。


 「近代の超克」とは思想形成の最後の試みであり、しかも失敗した試みであった。思想形成とは総力戦の論理を作り変える意図を少なくとも出発点において含んでいたことを指し、失敗とは結果としてそれが思想破壊に終わったことを指す。「近代の超克」は、いわば日本近代史のアポリアの凝縮であった。しかし、そのせっかくのアポリアは雲散霧消して、「近代の超克」は公の戦争思想の解説版たるに止まってしまった。そして、敗戦によるアポリアの解消によって、思想の荒廃状態がそのまま凍結されて今日に至っている。