ピエテートと知識人について


http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/11/post_00f6.html


まだやってたのか、
というのが率直な感想だが、
このマックス・ヴェーバー
「ゴシップ」の是非は置いておくとして、
実際、ヴェーバーという人は
「愛」という言葉を使わない。
彼は常に「ピエテート」と言う。
訳すのが難しい言葉だが、
慈しみとかせいぜい親しみ程度の意味である。
そう言えば、松本健一氏が
かつて80年代末頃に母子心中が増えた時に、
このような評論を書いておられた。

かの女は子どもに無限の庇護=愛を与えようとし、それが不可能であることを知りつつ、その代償として「ピエテート(敬虔)」を子どもに期待する。こういった期待は、子どもに過重な要求として意識され、かれらは母(親)から逃れようと必死にならざるをえない。…中略…夫婦は別れることができるが、親子は別れることができない。それは、他人が仲に入ることのできない「聖域」である。それゆえにこそ、親子の関係は自然の暴力として、子どもを絶対的に束縛するわけだ。子どもはそれから逃れようとする。しかし、親(母)にはそういう子どもの脱出願望が理解できない。(第三文明社現代日本の精神史』)


一般に母系社会と言われる日本において、
むしろ理解されやすい現象かもしれない。
殊に昨今は若い女の子ほど社会に出ている分、
男のマザコンより女のマザコンの方が
関係の軋轢が深刻かもしれない。


羽入辰郎氏と喧嘩している
折原浩氏だが思えば氏はかつて
東大教養学部助教授(不)採用問題の
中心に居た人物で、見田宗介氏とともに
西部邁氏に批判されていた。
面白いことに折原氏自身かつて、
東京大学――近代知性の病像』という本で、
大河内一男林健太郎といった人々を
批判している。
いやはや何とも香ばしい。


我輩としてはヴェーバー学云々の前に、
国家論から果ては自我論にまで手を染める、
哲学かぶれの東大の社会学者たちに
何ぞ言うたってくれと思うのだが。
(殊に見田氏と広松渉に影響を受けた人に多い)