「赤木智弘」論とその周辺


何れ本館でしっかりとした
批評を書く予定では居るのだが、
道筋を付けるべく、
いくつかの覚書を残して置く。
散漫な筆を振るうが、
覚書という性質上、
読まれる方は諒とされたい。


http://d.hatena.ne.jp/t-akagi/20071204
キャンペーン・ブログにまた新しく
書評がアップされているのだが、
この種の問題を論じる人は、
過度に自分を反映し過ぎているきらいがある。
より端的に言えば、
赤木論文」と赤木智弘という人自体が、
ある種の主体性を欠いた核に
なっているのではないかと思われる。
共感と反発が思想枠の不在の周縁を
ひたすら空転しているようですらある。


http://d.hatena.ne.jp/t-akagi/20071202
鮭缶氏は赤木氏を『ガンダム』の
シャアに譬えておられるのだが、
ジョークとしては面白いが、
批評としては妥当だろうか。
シャアは確かに持たざる者の
指導者(扇動者)であったかもしれないが、
彼自身はカリスマの血を受け継ぐ、
持てる者であった。


一時期、我輩も
持たざる者の喝采を受けたという点で、
二・二六事件を起こした青年将校たちの
思想的先導者であった北一輝を連想した。
だが、むしろ決起が失敗に終わって、
「何たる御失政でありましょう」
昭和天皇に怨み言を吐いた、
信仰者であった青年将校に近いかもしれない。


我輩がこの問題に関連して、
宮台真司氏を腐しているのは、
青年将校たちが自分の著作を誤読していた
(北自身の思想は天皇機関説である)
にかかわらず、それを修正しようとせず、
最後まで彼らとともにあった北一輝や、
思想的に北一輝を嫌いつつも
(機関説論者は右翼と相性が悪い)
青年将校達に共感し、彼らに殉じた
三島由紀夫(多分に芝居掛かってはいるが)
のような覚悟が氏にあるとは思えないからだ。


先のキャンペーン・ブログでは、
「赤木氏は、第二作目がキーになると、
 ジャーナリストの武田徹が言っていたが、
 そんなの関係ない。
 雨宮処凛を越える、深い頭を持つ、
 影の現場主義の言論をこれからも期待したい」
と締め括られているが、
赤木氏の意見に賛否は別として、
何かしらの反応を示した人々は、
その頭(知性)に期待したのであろうか。
残念ながらそうではないだろう。


赤木氏はカリスマなき指導者(核)という意味で、
イエスの方舟事件」の千石イエス
似ているのではないかと思う。
80年代のこの事件を知る人は、
殊に若い人には少ないかもしれない。
家庭の不和や不適応に悩み疲れた人々が、
寄り集まって逃避行するというものだったのだが、
その中心にあった千石剛賢(イエス)は、
冴えない中年の男に過ぎなかった。
集まった人の多くが女の人であったためか、
当時、センセーショナルな報道が為されたが、
彼自身は彼ら弱き人の象徴のようなもので、
その原理は支配というよりは共感であった。
その点において後のオウム真理教とは大きく異なる。


http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20071004/p2
こちらのブログの執筆子は、
「『希望は、戦争。』の赤木智弘雨宮処凛は、
 同じ1975年生まれだけど、個人の資質としては、
 全然重なるところはないと思う。
 赤木は、基本はかなり保守的な感性の持ち主で、
 時代が違えば、普通に
 まったりくらしていけるタイプなんじゃないか。
 それに対して雨宮は、たぶん時代に関係なく、
 資質的に生きずらいというか、
 つねに人生に過剰なまでの強度を必要とし、
 まったりできないタイプ。
 そんな全然資質の違う人間が、
 期すぜして、
 社会に対して同じような異議申し立てをしている」
と評しておられるが、
この読みの方が正鵠を射ているのではないだろうか。


要するに平凡に生まれたが
平凡に生きる事がかなわなかった人が
赤木智弘という人なのであって、
彼の本質は良かれ悪しかれ凡人なのである。
物質的に解決出来る問題である以上、
精神論や思想が出る幕は無い。
その点において雨宮女史は苦しい。
なお悪い事に彼女の苦しみは
他人の苦しみをも受け取ってしまう。
そういう意味でこの組み合わせは、
決して良い影響を及ぼさないだろう。


http://d.hatena.ne.jp/thigasikawabata/20071203
週刊現代』に件の本に短い書評を
寄せられたこちらのブログでは、
「あの本については『読む価値』が
 ないとは思っていないし、
 かといって
 『なんで皆そこまで褒めるのか
 (嫌うのか)』とも思っている」
と率直な弁をもらしておられるが、
この弁も書評も正論の部類に入ろう。
現実は何時だって悪いのであって、
現実を前に誰もが弱者になる。
だからこそ我々は理想を掲げ、
それを目標に現実を歩んでいくのである。
現実と理想は乖離しているのが
そもそも当たり前なのであって、
それは誰にも責め様が無い事だ。


「匂いに鈍感な『左右の識者』が
 規範や道徳を唱えていましたが、
 こうした糞野郎は増えるばかり。
 『匂いに鈍感な糞野郎』が
 正論を唱える中、
 本書の正誤を逐条的に
 議論しても仕方ないでしょう」
と宮台氏は言うのだが、
現実に振り回される理想は、
もはや理想とは言えないし、
功利主義的に物質に解決してしまうような
思想はもはや思想と言えるのだろうか。


「この本で『匂いに鈍感な糞野郎』の存在が
 実名を挙げて暴露されていること」
が重要なのではなくて、
むしろ思想というものが、
もはやアナクロニズム
陥ってしまっているのではないか。
そして、本書は期せずして、
それを明白にしてしまったのではないか。
そういう危惧のようなものを我輩は抱く。


良かれ悪しかれ思想枠の不在を
補ってきた外来の思想(殊にマルクス主義)が
80年代以降退潮の一途を辿り、
露出した空虚さの上で我々は踊っている。
それに左翼右翼は関係ない。
こうした思想的状況に、
既存政党への不信や政治の不安定化、
現代日本はあたかもナチス前夜の
ワイマール共和国のようですらある。