とある茶番劇の見聞と感想


アキハバラ解放デモ」の中心人物であった
古沢克大氏が氏とその周辺に対して批判的であった、
『世界の中心で左右をヲチするノケモノ』
の執筆師に対して賄賂を贈った事件は、
はてな村」の片隅で大きな反響を呼んでいる。
http://d.hatena.ne.jp/plummet/20071208/p1
http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20071209/1197137075


『ノケモノ』の執筆師は

流れをまとめてみるに、furukatsu氏は、俺に『金券』を譲渡することにより、懐柔を試みたのだと言えよう。つまり賄賂を寄越したのである。懐柔しようとした、それ自体の目的までは定かではない。しかし前々日エントリのコメント欄への書き込みから判断すると、新たに企画した『クリスマスデモ』に際し、俺に好意的評価を下してもらう意図があったのではないかと推察される。俺はアキハバラ解放デモに対する「批判派」の、比較的中心近くにいた人物として周辺からは認識されているであろう。その俺が「解放デモ首脳部から追放されたfurukatsu」が新たに企画したデモに好意的評価を寄せることは、より大きなプラス評価のバイアスとなる。『解放デモをあれだけ批判していたplummetが高評価した』となれば、単に『アブラヤシの教祖が高評価した』よりは周辺の評価も高くなるだろう、ということである。

と今回の件を解釈されておられ、
また、古沢氏自身の弁明でも、
「plummet様の予想通り、
 好意的な評価を欲しいがために
 賄賂を送ったということになります」
とあるのだが、
もっと単純な理由もあるのではなかろうか。


この笑えない喜劇に至る一連の茶番劇に
一貫した論理的説得力を以って向かわれた
『ノケモノ』の執筆師に、
古沢氏は常に言論の上では敗北して来た。
しかし、師は実生活の上では、
金の無いオブローモフといった趣の方で、
回りくどい言い方をしないで言えば、
古沢氏はその事に優越感、
あるいは侮蔑感の如きものを
抱いていたのではないか。


コンプレックスというのは単に
劣等感としてあらわれるばかりでなく、
それはまたいじらしい優越感も生み出す。
金を呉れてやる事で、
あるいは共犯関係になる事で、
彼は師よりも優越した位置に
立とうとしたのではないか。
少々うがった見方かもしれないが、
我輩にはそのように見える。


彼のチャットでの発言は、
あまりにあっけらかんとしており、
謀略を企てたという自覚すら希薄だ。
その軽さからは、
悪事を働く人間の心理や、
悪意すらも明確に感じ取る事が出来ない。
兎にも角にも“軽い”のである。
それでいて事が大きくなるや、
見苦しいまでに動揺し、
http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20071211/1197221170
このような謝罪を挙げるまでになっている。
しかし、彼の謝罪の弁は
どれほど言の葉を連ねようとも、
我輩には彼の後悔としてしか聞こえない。
大体、存在そのものが罪悪で、
その「生」にすら意味が無いのなら、
その「死」にだって意味は無かろう。


彼の謝罪の弁は少々ナルシスティックであり、
出来そうもない事が盛沢山に詰め込まれている。
古沢氏は「空気の奴隷」などと言うが、
個人的な良心と社会的な倫理は区別しつつも、
相互に成り立たせねば意味が無い。
その意味において、
彼の謝罪の弁はあまりに
個人的な良心に偏りすぎている。
誤解を恐れずに言えば、
社会にとって彼自身などどうだっていいのである。
問題となるのは彼の行動と結果だけであって、
彼自身がどうかなんて問われてはいない。
それを問い掛けるのは彼自身の良心であって、
社会でもましてや他人などではない。


古沢氏ばかりではないが、
この頃は卑屈な人間が多過ぎる。
自分の弱点や過ちをそのままに
素直に認められないから、
かえって劣等感に囚われて、
優越と劣等感の悪循環に陥ってしまう。
人間のやましさというのは、
悪事や利己心そのものにあるのではなく、
そうしたものを隠そうとする所にあり、
目を背けて舌を動かせば偽善的になる。
あるいは周囲から一方的に見た
自己を以って自己批判に及べば、
単なる独善の浅瀬の乗り上げよう。
その様なものは独断的正義漢の
排外性を内向きに転倒させただけに過ぎない。
自殺と他殺が殺人という点で相違無い様に、
本質的な差異などありはしないだろう。


現実に即そうとしようとするばかりに、
かえって現実に振り回されておる。
なお悪い事に、その自覚すら
失われしまっている始末だ。
理想とはあくまで“方向性”であって、
“距離”の問題ではないのである。
その違いを認識せぬ限り、
理想であれ現実であれ、
意志はどこにもなく、また、
どこへにも投げ掛けられる事も無いだろう。


独善と偽善とに引き裂かれるが故に、
時にファナティックであり、
また時にロマンチストとなる。
而してもとよりその自己矛盾に、一体、
如何なる論理的説得力が備わり得るだろうか。
偽善はもちろんの事、
独善的な反省もまた
自己陶酔の域を出ないのである。


全体(社会)の問題を個人的道徳で
解決しようとする無謀な試みは、
この辺で止めにして頂きたい。
我々は我々の問題を考える時に、
あまりに自分自身に固執し過ぎる。
少しばかり自分と距離を置いてみる事が
必要なのではないだろうか。
そして、諸々の言葉を着飾るよりは、
ただ一言無礼を働いた相手に向かって、
古沢氏は謝罪すべきであろう。