ナチズムとナショナリズムに関する覚書


●但し書き


少々必要とする資料、参考書を読むのに時間が掛かりそうなので、とりあえず漸化式に覚書を残し、それを後々、『浩瀚堂』の方で綺麗にまとめた形でアップしたい。ちょうど世界連邦とナショナリズムの話とも繋がるので、カント以来の普遍史的な世界観との連関を示しつつ叙述出来れば良いのだが、如何せん大き過ぎて手がまわらないかもしれない。


東浩紀氏と『極東ブログ』の執筆子の終風(雅号に付き敬称略、以下同)がナチズム(その臨界点としてのアウシュヴィッツ)とナショナリズムの解釈を巡って、小さな論争*1が起こり、主にはてなダイアラーの間で話題になった*2。我輩個人は後者の考えに近いが、すべてにおいて同意するという訳ではなく、むしろ見解の異なる点も多いのだが、さしあたって明らかに間違いが多いと判断しうる東氏の見解についていくつか反駁と疑問を呈したい。


●文学愛好家と歴史愛好家の憂鬱


http://d.hatena.ne.jp/t-akagi/20080403/1207197895
赤木智弘著『若者を見殺しにする国』のキャンペーンサイトである『希望は、戦争?blog』で、ほとんど唯一見解を共にしうるのが、鮭缶という筆名の執筆子なのだが、子は当該エントリにおいて、『αシノドス』 における中島岳志氏と芹沢一也氏との対談を批判して、「ある側面を切り取って一般化するのは『歴史学者』のすることではない」と少々茶化した文体で苦言を呈しておられる。こうした事は昨今の宮台真司氏の歴史に関する言説や宇野常寛氏の「ゼロ年代」論、さらには今回の東浩紀氏の言説にも感じられる。


例えば、

ナショナリズムの歴史が全体主義の歴史と密接に繋がっていること、そしてその臨界点がナチスドイツの強制収容所であることは、思想史的にはよく言われていることなのではないでしょうか」

「とにかく、人文系や思想系にもそれなりの蓄積があるんです。それにも常識的な敬意と関心を払ってください。心からお願いする次第です」

といった件である。我輩は単なる読書好きであって、その種の専門家ではないが、我輩の読書生活においてその種の言説は記憶の限りではこれが初めてである。


ナチズムに関連する本で代表なものをあげれば、マルクスフロイトを応用したE・フロムの権威主義的パーソナリティで説明される『自由からの逃走』だとか、サンディカリズムファシズムという表皮のもとに、ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断乎として強制しようとする人間のタイプが現われた」という大衆社会論の嚆矢となったオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』やオルテガと同じく伝統と新たに出現した大衆社会にして批判的な態度を取ったJ・ホイジンガの『朝の影の中で』で展開されるような大衆社会ファシズムを結び付けて批判するもの――「かつての時代の農夫、漁夫あるいは職人といった人びとは、完全におのれじしんの知識の枠内で図式を作り、それでもって人生を、世界を測っていたのである。自分たちの知力では、この限界を越える事柄については、いっさい判断を下す資格がない、そうかれらは心得ていた。いつの時代にも存在するほら吹きもふくめて、そうだったのである。判断不能と知ったとき、かれらは権威をうけいれた。だから、まさしく限定において、かれらは賢くありえたのである」だとか、特殊ドイツ的な事情、即ちロマン主義の破産とルター主義下の世俗主義に求めたH・プレスナーの『ドイツロマン主義とナチズム』などが有名である。ナショナリズムが強調されるのはむしろ第一次世界大戦の歴史書においてであって、ナショナリズムが第一義において、国民国家の樹立の運動であったという事実を我々は銘記しておくべきであろう。


東氏が取り上げているH・アーレントの『全体主義の起源』は近現代の思想史を洗い浚い総点検する様な浩瀚過ぎる文章に途中で挫折してしまったので、我輩は詳しく知らないが、こちらのブログ*3の「アウシュヴィッツナショナリズムとは同じ話か?」というエントリで引用されているアーレントの文章を読む限り、東氏の誤読か、或は記憶違いの可能性が高い。そもそもナチスが称揚したのは「国民(Nation)」ではなく、実に特殊ドイツ的な(――それは優越性と履き違えられやすい)神掛かった「民族共同体(Volksgemeinshaft)」という概念だったのであり、その実態は前代の思想の寄せ集めに過ぎなかった。彼らのイデオロギーは何より「否定の優先」だったのであって、そうした意味でナチズムは極めて虚無主義的であった。彼らが否定したもの――個人主義自由主義、民主主義、議会主義、資本主義、カトリシズム、マルクス主義(ボリシェビズム)、そしてユダヤ人。彼らの特徴はその否定面の強調であり、だからこそ、東西分裂後にナチズムのマルクス主義との対抗という側面が、逆説的にはあるが、強化されて理解されてしまうのである。


反ユダヤ主義とヨーロッパ主義


反ユダヤ主義というのは広くヨーロッパに見られた現象である。かと言って、ナチが特別悪かったのではない、といった論法を用いるつもりではない。この場合、程度の差が破滅的な結果を招いているのであるから、それは厳格に認識せねばならない。アーリア人優等人種説が有名なナチスであるが、同時に彼らはヨーロッパ主義を掲げていた。日中戦争時に、ある種の懐柔工作として日本軍が中国文化(具体的に言えば図書や建造物)の保護に乗り出し、その際に模範となったのがヒトラーのドイツであった。

「ドイツ占領下の欧州を視察した山下奉文陸軍中将が感銘を受けたのは、フランス人によって建てられた第一次欧州大戦の記念碑をヒトラーのドイツ軍がそのまま大切に保存していることや、ベルギーの民家に分宿するドイツ兵が屋根裏や地下室に潜り込んで、一般市民に迷惑をかけまいとしていることや、あるいはイギリス軍の焼夷弾で焼失しかけた教会を守るために、ヒトラーが工兵隊を派遣したことなどであった。――中略――ヒトラーは、ヨーロッパの歴史と伝統に回帰し、古き良きヨーロッパとドイツとの一体感の形成をめざすことで、眼前の侵略と迫害を正当化した」*4

こうしたヨーロッパ主義に賛同し呼応した知識人が、ヨーロッパ各国に少なからず存在する。中でも有名なものはナチズムに傾倒していたアメリカ人飛行士リンドバーグやフランスの対独協力者「コラボ」であり、中でもセリーヌなどは明確に反ユダヤ主義者であった。要するにナチスはドイツだけでなく、ヨーロッパの異分子としてのユダヤ人を抹殺しようとしたのである。


●歴史的文脈における「市民社会


ある種の欧化主義者が「市民社会」という特殊ヨーロッパ的な物を礼賛したために、「市民社会」というものの歴史的な理解に奇妙なねじれを齎している。「市民社会」というのは西欧に見られる特殊な社会形態の一つに過ぎず、また、ヨーロッパの全てが市民社会であった訳ではない。さらに言えば、「市民社会」を近代的なものと看做す事が多いが、実際には中世都市に端を発しており、むしろ前近代的な点においてこそ、その特徴がある。だからこそ、ヘーゲル市民社会の超克(Modernization)としての民族共同体(Nation State)、即ち「国民国家(Modern State)」を彼の思想において目指したのであった*5。フランスに対する“後進国”ドイツの現状を憂え、さらにはイエナにおいてナポレオン*6を目撃した彼にとって、市民社会は超克されるべき対象なのである。そして、近代国家の下にあって「市民社会」は、はじめて“近代的”足り得たのだった。


この前近代的(近代国家以前)としての「市民社会」(共同体)的なニュアンスを感じるのが今回の論争に付帯して叙述しておられる『地を這う難破船』というブログの「マフィアの論理とナショナリズムの論理(正義の実装)」*7というエントリである。独特の断言を回避する生硬な文体故にところどころ我輩には理解しかねる部分があるが、少なくとも「マフィアの論理」というものは少々レトリックとして不適格である様に思われる。そもそもマフィアというものはイタリアの近代化の特殊な文脈として理解されるべきであって、一般的な概念として用いるべきではない。「マフィア」は純粋に前近代(封建時代)のものではないし、無論の事、近代のものでもない。それは近代化によって歪みが生じた、言うなれば、近代化によって変質した前近代性なのである。その歪みが近代社会にとって有害なだけなのであり、その歪み以外は単なるならず者、何時如何なる時代にも存在する法からの逸脱者に過ぎない。


歴史的文脈から言えば、イタリア北部が古代からの都市国家性を温存し、まさに「都市は人間を自由にする」という空気のもとに共和主義的な市民社会を形成していたのに対し、南部、特にシチリアを支配した外国勢力(ノルマン、カスティリヤ、ブルボン)は、極めて専制的な支配を布いた。すでにルネサンスの時代から、ナポリ王国のような市民的平等が存在しない地域では共和政体が樹立される事はありえないだろうとN・マキアヴェッリは喝破している。つまるところ、イタリアの北部における近代市民社会の伝統は、中世市民社会の良き遺産なのである*8


●歴史的文脈から見た「統合」乃至「中央集権」


市民社会」と同じく誤解を受け易い歴史的文脈にヨーロッパ各国に対する中央集権のイメージがある。即ち、フランスやドイツが強い中央政府を有した集権的な体制であり、イギリスが弱い中央政府と分権的な体制を有していたという誤解である。『アングロサクソン年代記』という古文書によるとノルマン・コンクェストの結果、原住のサクソン人貴族は数名を残して悉く殺害されたという。そのため、このノルマン人による征服王朝*9は当時のヨーロッパの諸国とは比較できないほど強固な王権を有していた。このノルマン王朝の形式上の主君であったフランス王はパリ近郊の大貴族に過ぎなかった。無数の領邦が散らばり、ほとんど象徴的な意味しかなかったドイツ皇帝などと比べ様が無かったのである。そのために以後のイギリス史というのは、弱小な貴族達の強力な王権に対する挑戦であった。それが「マグナ・カルタ」であり、「模範議会」であり、「大諫奏」であり、「権利の請願」であり、王殺しのピューリタン革命という臨界点の後に、緩やかに「議会の中の王」という着地点を見出して今日に至っているのである。これと逆の運命を辿ったのがフランスであり、ドイツであり、イタリアであった。フランスは王権の絶対化とパリ一極集中の真っ最中に革命が起こるという混乱が生じた。或はド・トックヴィルにならって、すでに集権は完了しており、革命によって強化されただけと看做す事も出来るかもしれない。さらに言えば、革命の最中に起こったヴァンデ戦争はまさに集権化に抗う共同体と隆盛する国民国家との(過渡期的な事件としての)戦争と言えよう。


さて、問題はドイツである。ドイツはフランス以上に混迷を極めていた。ドイツのナショナリズム領邦国家だけでなく教会権力とも戦わねばならかった。俄かには信じ難いのだが、H・プレスナーの『ドイツロマン主義とナチズム』によれば「アウグスブルグの和議」以降、“領主”が領国の宗教を選び、個人で選ぶ事は出来なかった。なんとこの一種の領国単位での国教会は“第一次世界大戦の敗戦時”まで存続し、その後のワイマール体制の下で解体せられたとはいえ、補填として政府は所得税の“一割相当の教会税”(まさに十分の一税。これもまた伝統と言えようか?)代理徴収し、この制度は何と“現在でも続いている”のである*10。この世俗の大地を縦横に走った地裂を埋める事はあの偉大なるビスマルクをして不可能であった。北部プロテスタントと南部カトリックポーランドの汽水域としての東プロイセン、さらにはベルリンとウィーンの二者択一。小ドイツ主義以外は選択の余地が無かったにも関わらず、それでもこの奇妙な捩れは今日でも解決されないであろう。一体、ドイツ人の国とは何処までを指すのか。


こうした状況をさらにややこしい事にしたのが、前世紀のネオコン、ウィルソン大統領の民族自決ベルサイユ条約で禁じられたドイツとオーストリアとの合邦との原則上の“捩れ”である。そういう意味でプロテスタントが多かったナチにあって、ヒトラー自身はカトリック系のオーストリア人であった事実は興味深い。先のプレスナーカトリック下の世俗主義(フランス)とルター主義(ドイツ)下の世俗主義を対比して、後者にナチズムの遠因を求めているのであるが、フランス革命ジャコバンのテロル政治を考慮すれば、必ずしも妥当な見解とは言えない。ただ、日本でも好まれるベンヤミンの「政治の美学化」という見方よりも、こうした「政治の神学化」といった見方のほうが妥当である様に思われる。つまり、世俗的かつ反自由と言う意味で普遍的な“教会”が地上の統治に乗り出したのである。一面では断片の寄せ集めあるそれは、また別の一面では断片を散り散りになるのを留めていた。それは神無き時代の倫理であった、否、倫理の代替物であった(神無くして倫理が倫理足り得ない事は「力への意志」を掲げたニーチェの挫折によって明らかであろう)。その倫理から弾かれたものがユダヤ人であり、その専制的な顕現が「アウシュヴィッツ」だったのではないか(まさに「アウシュヴィッツに神は居なかった」のである……)。


アナクロニズム或は“新しい「中世」”として。


戦前において、ナチス・ドイツを「新しい中世」と呼んで批判したのは、ドイツ文学者で一高教授だった竹山道雄である。ここで触れるのは、彼の講演そのものではなく(――アイデア上のインスピレーションは受けている)、ロシアの神秘学者N・ベルジャアエフにおけるそれである。ベルジャアエフは「近代を中世と同様にキリスト教時代――とはいえ、神を失ってしまったキリスト教末世の時代――科学、ヒューマニズム自由主義個人主義マルキシズムが神の代用品として登場する歴史の終末期」*11と見た。彼が見たのはファシズムではなく、ロシアのボルシェヴィズムであったが、結局のところ両者は「近代」が生み出した双子の鬼子ではなかったか。つまるところ、「反近代革命」(或は“近代の超克”)としてのファシズムであり、ナチズムであり、共産主義革命である。


かつて伊藤隆氏と山口定氏との間で「ファシズム論争」というものが存在したが、そこで問題となったのは日本におけるファシズムの定義の曖昧さであった。ファシズム国家主義ではありえない。何故ならそれは国家を飲み込む党派であったからだ。戦前の日欧の先進国にとって中国国民党とは「赤」であると看做された時期があった。何故なら中国国民党ソ連が支援していた(国共内戦時すらソ連は国民党を支援していた)し、蒋介石が実際に布いたのは一党独裁であって、それはヨーロッパ人にボルシェヴィズムによる専横を連想させるに余りあった。


ある党派が国家を乗っ取ってしまう事例は歴史に枚挙が無い。フランス革命は絶え間ない党派抗争の連続であり、勝者は敗者を弾圧した。憲法も国制も短期間に目まぐるしく転変した。同時期のアメリカ史においてフェデラリスト政権の第二代大統領ジョン・アダムズからリパブリカンのジェファーソンに平和裏に政権が移行された事を革命と称している事は、決して、過大な評価とは言い難いのはこのためである。今日においては、中国共産党の一党支配*12などはこうした事例の一つと言えよう。


時に「人民元」という呼称を我が国では慣例的に為されているが、これは誤りで、正式名称は「人民幣*13であり、国際的な略称もそれに準じた「RMB」である*14。国民党の通貨が法に基づく「法幣」であるのに対し、こちらは人民に基づいており、厳密に言えばこれは国家の通貨ではない。同様に国家の役職もまた党の役職が先行しているのであり、このようなものを国家と呼べるか大変疑わしい。“新しい「中世」”という言葉で我輩が言い表そうとしているのは、つまり、ナチスソ連は国家と言うよりもむしろ世俗化した教会と言った方が実際に即しているのではないか、という推理である。


少々疲れたので、ここで一旦筆を擱く。

*1:★参照:http://www.hirokiazuma.com/archives/000394.html ★参照:http://www.hirokiazuma.com/archives/000395.html ★参照:http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080421/1208747769

*2:★参照:http://d.hatena.ne.jp/kouteika/20080422

*3:★参照:http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20080421/p2

*4:☆引用:井上寿一日中戦争下の日本』

*5:★参照:G・W・F・ヘーゲル精神現象学

*6:ヘーゲルは「馬上の世界精神」と呼んだ。なお、我輩は「チビで、デブで、ハゲの、田舎貴族のイタリア人」と呼んでいる

*7:★参照:http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080422/1208823011

*8:★参照:R・D・パットナム『哲学する民主主義』

*9:しばらくの間、この宮廷ではフランス語が話されていた

*10:本書出版時は1995年。2008年現在では未確認

*11:★参照:「反近代の思想」名義は福田恒存だが、若かりし頃の西尾幹二氏の筆によるものらしい

*12:厳密に言えば旧国民党左派など幾つか他に小政党が存在する

*13:おそらくは国民党政権下の「法幣」に対抗する意味がある

*14:★参照:田代秀敏『中国に人民元はない』