社会契約説と自然法についての覚書


『物語三昧』というブログの執筆子が、
社会契約と自然権を軸にアメリカについて
エントリで対話なさっておられる。
★参照:http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080419/p8


中々興味深い対話ではあるのだが、
いくつか異見を抱いたので、
それに関していくつか述べて置きたい。
本日は契約説のほうを大雑把に、
後日(明日?)、東浩紀氏の実に不愉快な、
ナショナリズムに関する見解に対する反駁とともに
普遍史についていくつか記述したい。


それは「大きな物語」がどうこう以前に、
そうした見方は正しいのか、という疑問である。
たとえば、世界史などというものがあるが、
そもそも世界史に統一的な意味などあったろうか。
いや、そもそも世界史などというものが、
仮初にも成立しえた時代があったろうか。
国家や共同体が幻想であると言うならば、
それが割拠する世界もまた幻想であろうし、
属する個人もまた幻想であろう。
ある種の起源論争が国家に目的を求める余り、
それの手段としての性格を失念させる。
それが“運動体”として性格を持ち、
国家理性という意志が仮定され、
未来に投げ掛けられるのであるならば、
そもそも統一的な起源など必要とはしないであろう。


さて、「社会契約説」や
自然法」といった概念は、
用いた論者によって
意味がかなり異なるので、
こうした概念を用いる時は、
――少なくとも、歴史的に語る限りにおいては、
少々慎重にならざるを得ない。
即ちジョン・ロックの契約説と、
ホッブズ、ルソーらのそれは、
下地になっている「自然」観からして、
かなり異なった様相を見せているのである。


オーソドックスに、年代順に述べれば、
まずはトマス・ホッブズであるが、、
ホッブズは機械論的な自然観を持ち、
自然には目的が無いと考えていた上に、
彼の生きた時代の熾烈な宗教戦争への反省から、
「普遍性」というものに対して
かなり懐疑的な見方をとっていた。
後述するが、神の存在を前提に置いていた
ロックと違って今日ホッブズが読まれ続けているのは、
そうしたパワー・ポリティクス的世界観の故であり、
今日でも国際関係論の論者達が、
少なからずホッブズに依拠している。


さらにはイギリスにおいて花開いた
普遍的なものは言葉のみであるという、
唯名論」を継承していた彼にとって、
自然状態とは法が無い状態であり、
無いが故にそもそも罪も存在しない。
人間は自然によって結びつかず、
国家は人間の意志の所産、
即ち人工的(artificial)なものと捉えた。
彼の統治観(法律観)はその延長で、
「Person」(人工的人格)が「Actor」(主権者)であり、
法律は主権者の意志であると考えられる。
彼の「契約」(法律―意志の正当化)観とは、
「Author」(本人)同士の横の契約によって、
Authorize(権威付け)されたものなのである。


三十年戦争ピューリタン革命を生きた
ホッブズから下って名誉革命に生きた
ジョン・ロックにとっての「契約」と
「自然」とは何であったか。
実のところロックはそれについて
語っていないのである。
彼の『統治論』は自然法を前提としており、
そのために「第一論文」で
王権神授説のフィルマーとともに、
自然法掲示した「国際法の父」
グロティウスを批判しているのだが、
肝心の自然についてほとんど説明が無い。


実のところロックにおいては、
「神の存在」を前提としてしまっているのであって、
道徳や神の存在を自明視したが故に、
ホッブズや或は下って功利主義のミルと比べると、
まったく顧みられない存在にならざるえないのである。
ロックが読まれなくなったのは、
現在の話だけではなくて、
実のところ独立後のアメリカにも当てはまる。
よく言われるように、
「独立宣言」はロックの影響下にあったが、
独立後の連邦憲法の制定者たち(建国の父)に
強く影響を与えたのは、
モンテスキューなのであった。
★参照:http://blog.goo.ne.jp/william1787/e/4d4a55cdb1e1554350f66edabe217e7b
    http://blog.goo.ne.jp/william1787/e/6fbae6f127c1e52854f04a3cad8ceeff)


ところで、資本主義の精神でよく言及されるのは、
ヴェーバー的なピューリタニズムであるが、
我輩はそうした一種の成功哲学には、
むしろ「所有権」を神の意志と見たロックの
労働賛美に影響があるのではないか
と根拠の無い憶測を最近抱いている。


ロックの契約説と言えば、
革命権を特色として強調されがちであるが、
ホッブズのそれと契約の主体自体異なる。
ホッブズが人民と主権者の一方向的な契約なのに対し、
ロックは人民と政府との間に共同体を置き、
この共同体と政府の双務的な契約、
「Trust」がロック流の契約観である。
そのため、ロックの国家観というのは、
リベラリズム的な調停者として国家なのであり、
それ故に彼の権力分立論は二権分立なのであった。


最後のルソーであるが、
これはかなり特殊なので、
下手に利用すると
こういうミスをするので注意が必要である。
★参照:http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000423.html


時として全体主義の源流とも
看做され批判されるルソーであるが、
一般意志は当時の普遍主義、
立法者(主権者)の方は啓蒙専制の文脈で
理解されるべきなのかもしれない。


具体的な異見についてであるが、
 「契約は現実対処」だけど
 「自然権は神話(根拠の創造)」に過ぎない
という見解についてである。


B・ラッセルは『西洋哲学史』において、
社会契約説を“解説的神話”と呼んだが、
これは的を射た見解であるように思われる。
彼以前にもそうした批判を為した人は多いが、
代表的な批判者をあげるとするならば、
トーリー史家にして、経験論の哲学者、
D・ヒュームのそれであろう。
つまり、歴史上そのような「契約」は存在しなかったし、
存在したとして、父祖の同意が
その子孫を後の後のまで拘束するという
“仮定”は不合理であって、
服従の義務について説明に
なっていないというものである。
(「原始契約説について」)