「日韓併合」という変な名称について思うこと


この種の話題は扱いが難しいが(――とは言っても、この種の話題に“政治的”という枕詞を付けることを我輩は好まない)、こちらのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20080521/p1)と、それ以前の関連する三つのエントリに関して少々の雑感と覚書を記しておく。


瑣末事と言われるかもしれないが、第一に我輩が違和感を覚えるのは、「日韓併合」なる奇妙な名称である。併合(併呑)されるのは韓国であって、日本ではない。したがって、「韓国併合」と記すのが正しい。そもそも「日韓併合条約」なる条約など存在しない。「韓国併合に関する条約」である。はてなキーワードは二種類に分かれてしまっているが(――統合されることが望ましい)、ウィキペディアはちゃんと「韓国併合」一本になっているようだ。誰が広めたのかは知らないが、困ったことである。言葉として「日韓合邦」ならまだしも理解できるのだが、前記条約にもあるように、「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」という、事実上の“吸収合併”なので、対等合邦とは言い難く、やはり「韓国併合」という名称で統一すべきであるように思われる。呉善花女史が韓国併合肯定論として書いた本の名前も、ちゃんと『韓国併合への道』(文春新書)になっているのだが、ところどころ「日韓併合」と記されている箇所が見受けられる(――この種の表記のブレは編集者の責任の方が重いのかもしれないが)。なお、本自体の評価としては、巻末の参考資料を見ると、一応、一次史料(――とは言っても公刊史料ばかりだが)には当たっているようなので、ある程度信頼してもよいように思われる。


誰が言い始めたのか知らないが、そもそもこの「日韓併合」という言葉に、ある種の後ろめたさの反映があるような気がしなくもない。まあ、一番可能性として高そうなのは、韓国での名称が最近になって逆輸入されたといったところか。肯定的でも優越的でもなく、単なる事実として日本の植民地経営は、西洋のそれと異なる点が少なくない。内地と外地とで差別されていたとはいえ、台湾や朝鮮は日本の統治権が及ぶ地域であり、狭義の植民地とは言えない。むしろ、委任統治領であった南洋諸島や、満鉄沿線や租借地などの南満洲などが、西洋的な植民地の典型例としては指摘しやすい(――無論、実態としてやってることに大差がないわけだが)。この特異性の“解釈”の問題が、今日の所謂「歴史認識問題」の一つとなっているのだろうが、台湾にしても朝鮮にしても、すんなりと日本の統治を受け入れたわけではない。たとえば、併合後の三・一運動の時は、当時の軍関係者もやばいと思ったらしく、朝鮮軍指令官の宇都宮太郎が参謀総長の上原勇作宛にこんな手紙を送っている。

「軍隊は五百二ヶ所に分屯、警備と人心の安定とに努めある次第に御座候。しかし、軍隊の威圧一方にて根治を得んことは素より不可能に付き、小康を得たるを機として根治の方向に一歩進めたらば如何との感これあり申候。要はこの朝鮮を将来いかに統治すべきやが根本問題にして、その第一は遠き将来には内地と同様なる府県制を実施して全く内地と同一の取扱を為すべきや、第二に、民度などを顧慮して漸次に自治を与え、終には一種の自治植民地として統治すべきやの二点が根本問題になるべく」(『上原勇作関連文書』『歴史をつくるもの』上巻 中央公論新社より孫引き)

  

今日の我々より遥かに身近な問題であり、であるからこそ、現実的な認識と所在を求められた当時の権力者たちに、夢物語的な併合肯定説など存在しようがない。あるのは単純に危機感か、武断かのどちらかである。あるいは民間のアジア主義を見ていても単純ではない。『大東合邦論』(1893)の樽井藤吉ですら、「日韓聯邦の議」(1907)において「第一、現今朝鮮を保護国と為すも其保護料を取るにあらざれば、我日本は損するのみにして益する所なし。聯邦と為すに於ては其政費を分担せしむることを得」と述べている(――参照したのは古田博司『東アジア・イデオロギーを超えて』新書館 だが、直接指摘したのは上村希美雄『宮崎兄弟伝――アジア篇(中)』葦書房)。さらに、古田氏は同書の分析において、松本健一氏や田中明氏の言説を引いて、「アジアの中でいち早く近代化イコール西洋化に成功し、アジアを捨てて西洋に近づいていったという、日本人の負い目の意識が表出する。そしてアジアを侵略し、植民地支配した『裏切り者の覇者』という咎が、『内鮮一体』や『皇民臣民化』という偽の連帯を政策とした、アジア同化政策へと朝鮮総督府を駆り立てていったものであろう」と指摘している。この種の後ろめたさと言うか、断絶感、或は独特の歪みのようなものが左右を問わず、この手の論者には多いように思われる。


●背景的なものについて短い覚書


韓国併合の前後というのは台湾経営(児玉・後藤、1898〜1906)がちょうど軌道に乗った頃である。この成功に自信を持ち、朝鮮の植民地開発も上手くいくと思ったのが後藤新平とか、桂太郎といった人々(立憲同志会)である。一方で、大陸に進出に一貫して慎重だったのは伊藤博文(シナ本土との貿易中心)であり、両者の中間として「主権線と利益線」(軍拡)の山県有朋と国内政策重視(軍縮)の政友会が置かれよう。なお、従来、三谷太一郎先生をはじめとして、鉄道敷設に熱心だったのは政党内閣(特に原敬、政友会)だったとされてきたのだが、実は最も鉄道敷設(km換算で)したのが第二次桂内閣であり、逆に軍備拡張したのは第一次西園寺内閣であったことから、小林道彦氏が、桂太郎立憲同志会、さらには桂園体制を、従来とは異なる位置付けで理解し、評価を下している(詳しくは同氏の『日本の大陸政策』或はミネルヴァ日本評伝選桂太郎』を参照のこと)。


覚書というには長くなってしまい、内容も(後半は特に)中途半端だが、この辺で筆を擱く。朝の頭の体操にしては少々ハード過ぎた。なお、我輩は単なる本読みであり、読書人レベルの知識しか記していないので、ここまで読まれた方は、各々の関心にしたがって図書館に行ってくだされ。今日の覚書で参照に引いたものの他では、井上寿一アジア主義を問いなおす』(ちくま新書)、木村幹『朝鮮半島をどう見るか』(集英社新書)、伊藤之雄政党政治天皇』(講談社「日本の歴史」第二十二巻)あたりが、専門書なら北岡伸一日本陸軍と大陸政策』(東大出版会)あたりが定番と言えるのではなかろうか。それにしても、日本近代史の転換点となった坂野潤治先生の『明治憲法体制の確立』からかれこれ四十年近く経つのに、斯くも普及せんのは何でだろう。ミネルヴァ日本評伝選の『桂太郎』とか無茶苦茶面白いのに、アマゾンにレビューが一つもない。もったいないなあ。