自由主義の難しさ


最近、カントやらルソーやらを読み直しているのだが、如何せん発想が古い。もちろん、そうでない部分も多いが、それはどちらかというと新しい古いではなく、普遍的な問題なのであろう。カントの『永遠平和のために』(訳中山元光文社文庫)を読んでいて驚かされたのだが、カントは共和制を高く評価しているが、デモクラシーは民主的専制として区別している。カントにとって共和制と民主制は純粋に制度上の問題で、立法府と行政府が分立しているものを共和制と呼んでいるようだ。つまり、カントにとって今日の多くの民主制国家は専制国家なのである。しかし、良く知られているように、アメリカ型の厳格な三権分立というのは、他国ではあまり見られないモデルである。何しろ「政令」すら発することができないので、議院内閣制に比べると大統領権限が弱すぎるのである。したがって、フランス型のハイブリット(折衷)型の大統領制が多い。まあ、カントが言わんとせんことは分からないでもなくて、要するに立法と命令を峻別するべきか、否かという問題なのである。ルソーの『社会契約論』では命令は法律じゃないと言い切っていて、おそらくこの影響下にあるのだろう。


ルソーといえば、東浩紀氏の「一般意志」は何を言いたいのか、いまいち分からないでいた。まあ、図書館に入ることを期待して、二度の立ち読みですませた好い加減な読みのせいもあるのだが、ようやく分かってきた。紙屋研究所の高雪子の書評「『思想地図』創刊記念シンポジウム『国家・暴力・ナショナリズム』」を読んで、ようやく合点が行くものを掴めた気がする。

彼がモデルとしているイメージは「市場」であり、「ネット」です。


「たとえば、ルソーの一般意思を、じつは社会契約論でも何でもなく、市場が実現するものとして考えられないか。たとえば、ある財を購入する行為は、消費者は自分の欲望だけで動いているわけだけど、結果的には一つの意思表示になっている。そしてそれが集約されて市場が資源配分を決定する。それをルソーの一般意思と繋げて考えられないか。言い換えれば、ルソーをロールズからではなくハイエクから読み直せないか」


なぜわかりにくいルソーの「一般意思」を前半にもちだしてきたのかと思ったらこういうことだったのか。たとえば、Googleによる世界政府という思考実験があるわけですが、あるアルゴリズムにしたがって検索の順位を出していくシステムみたいにして意思決定をする、というようなことは一つのイメージになるかもしれません。あるいは、たとえば集めた税金を、市場的な行動の結果最適解が導かれそれによって配分する、みたいなことをイメージしているのでしょうか。


結論から言うとそれはルソーでもなく、ハイエクでもなく。こてこての『蜂の寓話』的世界観ないし自由主義ではないか。「私悪が公益を生む」というB・マンドヴィル(オランダ生まれのフランス人でイギリスに移住、アダム・スミスに強い影響を与えた)の思想そのまんま。あるいは功利的な自由主義者D・ヒュームの「習慣的黙諾」とその延長線上にあるハイエクの「自生的秩序」論など。噛み砕いて言えば、部分の散漫な集積体をそのまま放置していても、自然に統一ある全体ができあがるのが自由主義的な考え方であり、それは社会の成員がめいめいの利己心を発揮して、その欲望が充足される世界(観)とでも言えるだろうか。ちなみにハイエクはルソーのことが嫌いだったらしく、ルソーの翻訳者でもある桑原武夫が、ハイエクが来日した際に、ハイエクがフランス語を流暢に話すのを見て、ルソーの話題を振ってみたら冷たくあしらわれてしまったことが、ハイエク今西錦司の座談会本『自然・人類・文明』の桑原による感想に記されている。ハイエクさんは『告白』の作者にあまり好意的ではなかった」というしょんぼりした一文には、桑原先生には悪いのだが笑ってしまった。


あだしごとはさておきつ。実はこの手のマンデヴィル的な私欲肯定論、私欲の道徳化にルソーはかなり反発していたらしく、『人間不平等起源論』で反論を試みている。以下は岩波文庫からの引用。

奢侈は、自分の安逸と他人からうける尊敬とに飢えている人々にあっては、予防できないものであり、やがて、それはこの社会が始めた悪を完成する。そして、本来作ってはならなかったはずの貧乏人を食わせてやるという口実のもとに残りのすべての者を貧しくし、おそかれ早かれ国家の人口を減少させる。


奢侈は悪を治癒すると称しているが、その悪よりもはるかに悪い療法である。というよりは、それ自身が、大小を問わずどんな国家においても、あらゆる悪のなかの最悪のものであり、それは、自分で作りだした無数の下僕やくだらない奴を養うために、農民や市民を圧迫し、滅亡させる。それはちょうど青々とした草や木に害虫をはびこらせて、有益な動物の食物を奪い、その気配のするあらゆる場所に、飢饉と死とをもたらすあの南方の熱風にも似ている。


社会とそれが生みだす奢侈から、美術工芸や、商業や、文学や、その他の産業を栄えさえ、国家を富ませ、はては亡ぼすあの一切の無用の長物が生れる。この衰退の理由はきわめて簡単である。農業はその性質からいってあらゆる技術のうちでもっとももうけの少ないものであるはずだということは容易にわかる。というのは、その生産物は、すべての人間にとって、どうしても使用しなければならないものであるから、その価格は、もっとも貧しい人たちの能力につりあっている。その同じ原理から、ひとは次のような規則をひき出すことができる。すなわち一般に技術はその効用性に反比例して利益があり、もっとも必要なものが、かならず、結局はもっとも顧みられなくなることである。これによって、産業の真実の利益と、その産業の進歩から生れる現実の効果とについて、どう考えるべきであるかがわかる。


ルソーの言うことは全部正しいとはまったく思わないが、今日の経済における貧困問題や食糧問題に関して中々示唆であると思う。ルソーは同時代の思想家でも特に矛盾が多く、集団主義者ルソーと個人主義者ルソーとの断絶はことに有名であるが、我輩は個人主義者ルソーに重きを置く読みの方を支持している。東氏も存在論など抽象的な思弁をなす時には、我輩にとっても未だ達せざる頂をのぞむが如き存在なのだが、昨今はどうにも荒が目立つ議論をしている。あまつさえ、ブックマークのコメントを眺めていると、「なんでこんな自明のことを東氏が一生懸命説明しているのかよくわからない。/術語の定義をおさえないで適当にモノ言う人が悪いのか、それとも術語を避けて通れない専門家の方に責任があるのか」などと言う人が居て、何とも言い難い気持ちにさせられる。蓋し「信頼」が何に担保されているのか、我々はもっと考察を深めるべきかもしれない。