シナを思う


四川周辺で起こった大震災は、時間が経てば経つほどに、我々の想像を超えるような被害を生み出しているようである。老婆が呆然と倒壊した家屋を見つめ、青年が険しい表情のまま凍りついている立ちすくみ、手を小さく震えさせている姿など、画面越しながら深く刻み込まれるものであった。あの春節の大雪の比ではない、この未曾有の大惨事に対して、中共政府の手際は、お世辞にも褒められたものではない。あらゆる政府にとって、最も罪深いのは、腐敗していることでも、独裁を布くことでもなく、無能であるということである。たとえば、ビルマの軍政は、腐敗し堕落した独裁政権であるが、その最大の罪はサイクロンの被害を徒に拡大させている無能さにこそある。


制限された報道の自由のもとで活動する、かの国の操觚者をして、「何故政府の建物だけが残っているのだ」という憤りを、記者会見という公然の場にてぶつけさせるに至ったことは、事態の重大さを伝えてあまりある。三百万の世帯が家を失い、一千万の人民が被害を受けるという惨事に、十数万の人民解放軍を動員し、人海戦術を以ってこれに当たるも十全ならず。窮するに至って、遂には我が国の人的救援の申し出を受ける。これを以って、「遅きに失したり」という声あり。曰く、「人命を軽んじ、閉鎖主義を貫き、取るに足らぬ国粋をとって、国際救助隊を拒む愚策なり」。然り。されども、これを小さな価値ある一歩であると我輩は思う。


関東大震災の折に派遣されたアメリカの援助隊が、ちゃっかりと東京湾の測量をしていたことを彼等は知らぬわけではあるまい。かの国では僅か三十年あまり前には、幹線道路の20kmごとに歩哨が置かれ、国内の移動にも国内用のパスポートが必要であり、空爆を恐れて夜間の点灯規制が布かれていた。我が国のODAによって立派な空港が造られるまで、かつての北京空港のまわりにはほとんど灯りが存在せず、先の規制によって街灯がほとんど設置されず、あっても裸電球がぽつぽつとある程度、あまつさえ車が灯りを点して走ることを禁じていたほどである。


斯様なほどに不信感が渦巻いておった大地に、外国の派遣が受け入れられたという事実は、たとい遅きに失したとはいえ、評価すべきことではあるまいか。此度の救済にはほとんど役に立たぬやもしれぬ。されど、受け入れた事実は確かに残るのである。


そもそも、かの大地はあまりに広い。此の震災の被害が確認されておる範囲だけでも我が国の九州よりも広いそうである。そのような広い大地では、人間など極々小さな点がへばりついているようなもの。道路はあちこちで寸断され、三国志で描かれる蜀の険しい山々が広がる。その中で孤立した被災者が暴動を起こさぬように、物資を最優先で届けねばならぬ。ろくな機械もなく、人海戦術に頼るしかない状況に、優れた専門の救助隊員が向かっても、機器が揃っていなければただの宝の持ち腐れである。即座に受け入れられたとして、この混乱した状況でどれだけ救えたかどうか。救い出すだけでなく、救い出された者の健康の維持もまた急務であり、しかも能力に比して多大な重荷となっているのである。


徒に中共政府を責めたところで、何の救いにも、今後の教訓にもならぬ。それよりは、今回の遅く、また実にささやかな規模の救援隊ではあっても、それを受け入れたという点に、かすかな希望を見出しうると思いたい。その遅々とした、しかれども着実な一歩によって、緩やかに国際的協調の秩序の中に、かの国を収め(――ジョージ・ケナンの言うところの「Containment」)ていかねばならぬ。国際政治とは理念ではなく、こういう一歩一歩の積み重ねにこそあるのではないか。