ブログとSNSについて


ブログとSNSに関する省察の覚書。
思い付き故にさほど深いものではないし、
技術的な話も出来ない。
あしからず。


ネットに関して「ウェブ2.0」だとか
そういう議論が為されているようだが、
我輩はそうした議論にあまり関心を持たない。
白黒テレビがカラーテレビになったような、
その程度の感慨しか持てないからだ。
テクストや事象は常に多義的である。
それゆえに概念というものは
その共通認識に役立つものでなければならない。
何らかの概念のために論は立てられるのではない。
論を理解するためのツールとして、
事象を読み解く物差として、
共通認識としての概念は存在するべきだ。
つまりは事物そのものに通底する普遍性の探求。
ウェブ2.0」は中を見ずして背景を見ているに過ぎない。


ネットの特性はオープンでフリーな点にある。
それにあともう一つ足すとすれば
情報の水平化などのフラットであろうか。
前者二つに関しては同意を得られると確信しているが、
フラットに関しては確固とした意見を持っているわけではない。
ただウェブそのものには横軸しか存在せず、
それに対するカウンターとしての縦軸の試みが、
今日様々な形をとって図られているのではないだろうか。
例えばグーグルなどの検索エンジン
mixiなどのSNSなどだ。


ネットの特性を貨幣や経済に置き換えて論じてみる。
一万円札そのものの原価は20円程度だ。
では、何故一万円の価値を持つのか。
それは日本銀行に対する「信用」の数値なのである。
それゆえ、一般的に日本銀行総裁への信頼は
日本銀行券(紙幣)への信用に直結する。
かつてTVで大リーグを視聴していた際、
グリーンスパン氏が招かれていた。
アナウンサーが大きな声で
FRB議長グリーンスパン氏の臨席を告げ、
スポットライトが彼に集中され、
観客がスタンディングオベーションで歓呼する。
日本人の感覚では分かり難いだろうが、
これが先進国一般の常識的な反応だ。
と言うのも、ドルが不換紙幣になって以降、
ドルの価値を裏付けているのは「信用」だけだからだ。
グリーンスパン氏はその「信用」を一心に背負っている
と言うわけで、大統領に次いで国民の尊敬を受けている。
要はお札の顔は紙幣の肖像だけではないと言う事だ。
大統領は安全を保障し、FRB議長はふところを保障する、
そういう風にアメリカ国民は常識的に理解しているのであろう。


さて、話を戻そう。
個々の記事(ブログのエントリーなど)に対して、
(擬似的な)価値の裏づけを与えているのが、
グーグルであり、ブクマであり、
アクセス数(とそのランキング)であろう。
あるいはグーグルなどの機能は、
横軸しか存在しないネットに
縦軸を顕現させる事と見なせるだろうか。
グーグルというのは水平化を推進させつつ、
それが価値判断の準拠になると言う意味で、
垂直化を同時に強化しつつある。
この辺はネオ・リベラルにおける政府と国家に似ている。
つまりは小さな政府に隠れた強い国家の存在である。
グーグルは情報の歴史性を無視し、
その個性を徹底的に粉砕して水平化・相対化しつつ、
その見果てぬ水平線の中心に自己を位置付けている。


ネットの個々の記事は確かに保存(アーカイブ)されるが、
垂直に堆積されるのではなく、横並びにされる。
情報量が増えるだけで玉石混交が一層酷くなる。
それに擬似的な階層や序列を設けているのが、
グーグルなどの検索エンジンと言うわけだ。
mixiの場合は枠組みを設ける事で
閉ざされた空間を共有し(可動域を狭める)、
さらには選択を制限する事で、
その枠内での可能性を最大化させる試みであろうか。
ネットにおける中世城郭都市とたとえられようか。
ある意味、2chを「コテハン」限定にした感じでもある。


我輩が見るところ、
ネットの記事は貨幣(価値)的ではない。
むしろそれは手形(信用)的なのだ。
時折、連鎖的な不渡りを引き起こす。
それが「炎上」という現象であろう。
もともとそれ自体には何の価値も無く、
紙の形すらしていない不定型のブログは、
一度不渡りを来たすと瞬く間に破綻する。
信用という資産は不信の負債に転換可能だからだ。


加えてブログそのものは
フローしか表面上には現われない。
ストックに転換出来ない故に、
一夕にして不良債権化する恐れがある。


ストック(資産⇔負債)
フロー(預金+売掛金⇔買掛金)


ブログにおけるストックにあたるものは
知名度と言えようか。
それが炎上の際には仇になる。
つまりはフローしかないというよりは、
ストックそのものにフローの性質がある。
要は不動産ではなく動産だと言う事だが。


ブログが動的なのに対し、
SNSは静的で閉鎖的性質を持つものである。
むしろ閉ざされていなければならない。
何故ならネットは広大過ぎるからだ。
個人と全体が直面してしまい、
個人は計り知れない自由の重荷を背負っている。
これは個性というものの本質であり、
個性の発露とは実のところ
孤独の中で達成される性質のものである。
SNSはそうした全体社会としてのネットと個人とを繋ぐ、
中間集団の性質を備えている。


最近、「あしあと」というシステムは
共同体の黙約的「あしかせ」なのではないか、
ミクシィという社会(全体)は
一種ソフトなファシズムなのではないか、
そういう直感的な問題意識を抱いている。
それは2chの風景にも直結している。
そしてその通底にあるものは「倫理」だと想われる。
これは一種の個人主義に対するカウンターだろう。
そして2chの外にいる人々は、
2chというありもしない総体に怯えている。