近代精神


資本主義の精神は前近代社会の倫理の
否定の上に成り立っている。
マックス・ヴェーバーの指摘した
プロテスタンティズムの倫理だけでは不十分である。
資本主義の精神は三つの支柱によって成り立っている。
第一は、ヴェーバーの指摘した勤労のエトスである。
これは前近代に見られなかったものである。
前近代において働き者は極めて珍しい存在だった。
社会主義体制で起こった事はその延長である。
つまり、慢性的な労働力不足、穀物などの消費物の困窮。
足りない労働力や生産力を政府は強制労働で賄い、
民衆はサボタージュで抵抗する。
社会主義では労働は時間で計算されたため、
労働の質がまったく顧みられなかった。
そのため、極めて効率性の悪い経済体制であり、
社会主義体制であった国は深刻な環境破壊を経験した。


第二は、「私欲の道徳化」である。
利益追求が道徳的に悪であってはならない。
利益という私欲を追求するからこそ、
第一の勤労のエトスは守られるのであるから、
これが弾圧されるようでは資本主義体制になれない。
労働意欲を向上させるためにも、
利益追求が道徳的に適う行為にならねばならないのだ。
チャイナの映画『芙蓉鎮』では、真面目に働き、
やがて家を建てるほどに裕福になった夫婦が、
文革のあおりで批判され、弾圧される光景が描かれる。
社会主義でなくても、中世において、
飢饉になると打ち壊しが起きたり、
寄食と言って地主の家を集る行為が起きていた。
資本主義はその性質上私欲を肯定するため、
宿命的にどうしても富者の擁護に傾くのである。
正確に言えば、富の源泉が資本にある以上、
それを取り崩してしまう訳には行かないのだ。
絶えず増やし続けなければならない
運命に陥るこのシステムは、
私欲を動力源としながら極めて禁欲的でもある。


第三は近代的自我の確立および
科学に代表される合理的精神であろう。
これは単純なようで実に困難であった。
特に自我確立、エゴイズムの徹底は、
夏目漱石ほどの文学者をして挫折せしめた。
彼の『こころ』はその痛ましい失敗であり、
日本の近代文学がどこまで近代的でありえたかに、
疑問を抱かせる結果になった。
この近代的自我とは
「同一的」、「連続的」、「主体的」自我の事である。
これを確立せしめて、
はじめて自我に同一性[identity]の問題が生まれる。
つまり、アイデンティティの問題とは、
「我」の整合性の問題と言えよう。