動機など気にしない方がいい


常々思うが世人やマスコミの中の人たちは
どうしてああも動機にこだわれるのであろうか。
あるいはこれは日本人全体に言える事なのかもしれないが、
動機や原因を突き詰めて悩む事が
良い事だと思っている節がある。
精神病やカウンセリングなどでも言える事で、
あるいはプロファイリングなども
本家の統計学的アプローチを骨抜きにして
もはや動機の天気予報と化している。
当るも八卦、当らぬも八卦
どうせ結果はもう出ているのだから、
実に気楽なものである。


さらに始末が悪いことに動機と言う
実に曖昧模糊としたものを相手としながら、
精巧にして緻密な像を描きたがるのである。
日本人にフィクションの未来像を描かせたら、
実に素晴らしいものを創り出すのであるが、
困ったことに戦略思想といった簡潔明瞭なものでは、
現実妥当性の無いものばかり生み出してしまう。
現実の世界観などいったものでもそうであろう。


未来を見通すには、
未来に期待せぬ事である。
避け難い地獄絵図を、
ろくでもない未来の予報図を、
嫌々ながらでも見ること、
それしかないであろう。
未来という絵画に色を用いてはいけない。
未来を描くのは常にモノクロの粗いデッサンである。
故に我々はそれが拙い絵画と誤解してしまうが、
やがて現実が色を与えるだろう。
理論が正しいから未来に当たるのではない、
結局現実が理論を傍証するに過ぎない。


我らの自戒の言葉。
「夢も無く、怖れも無く」