カタカナ表記についての断章


先日、かつて仰いだ師の本の書評を漁っていたら、
どうしてこの人(私の師)は
ルビに日本語読みをふるのだろうか、
「ぼくせいき」とか時代錯誤でテラワロス(意訳)
という風にあるブログに書かれていた。
さらに似たような話が
言葉に敏感であるはずの作家業を営む
平野啓一郎氏のブログでも展開されていて苦笑い。

参照:http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20060919/1158604210


この手の話は阿呆らしいと退けるのが
常識人の感覚であると思っていたが、
意外や不可思議なこだわりを見せる人が多い。


たとえば、在日の韓国語に堪能な韓国人(笑)が
NHKのニュースを見ていても、
キムデジュン(金大中)とか
パンモンジャム(板門店)などと
アナウンサーが発音しても
韓国語として聞き取れないらしい。
彼は字幕の漢字を読んで意味を把握するそうだ。
(と言っても年配の人で、若い人は漢字を読めない人が多い)


どうしてこんな変な事になったかと言うと、
80年代にウリたちの名前は
ウリ式に表記するニダと
韓国政府がマスコミに圧力をかけて
何を考えたのかマスコミもそれにしたがって、
爾来惰性で続いている。
当の韓国人は豊臣秀吉伊藤博文
彼等式に発音していると言うのに。


最近はさらに酷くなっていて、
某新聞を読むと中国要人のルビも
中国人が聞き取れない中国式で振ってあって、
我輩は思わず苦笑してしまった。
日本人は細かく写実的である事を好むのだが、
プラグマティストではないから、
現実からどんどん乖離していく。
あまりの不毛さにわたくしなどは呆れているのだが、
彼らはさらに細かく壮大な構築物(虚構)を築いていく。
現実の一針がちょんっと触れただけで
壊れてしまいそうなものなのだが。


似たような事例は他の外国語でも良く見られる。
ギリシア語の音にあわしているはずのイエスはイエススだし、
(日本人には子音を重ねるのが難しい)
英米人は新聞の「Financial Times」を
ファイナンシャル・タイムズとは発音しない。
彼らは――と言うよりは本家風に発音すれば、
フィナンシャル・タイムズになる。
これはあっちこっちで指摘されている事なのだが、
某新聞は頑として改めようとしない。


英語は多少習った方なら分かるだろうが、
彼の言語は母音が重なる事を嫌う。
(と言うか逆を日本人が好む)
件のエントリのはてブコメントにもあるが
「private」を日本語風にプライベートと発音しようが、
プライヴェイトと発音しようが、
英米人には通用しない。


仏語も英語に似ていて(正確には逆なのだろうが)
母音をあまり強調しないようだ。
日本では何故か人気のあるサルトルが来日した際に
司会者がサルトル先生と呼んでも反応しなかった。
仏語では母音の音節が一つしかないのに、
日本語ではサ・ル・ト・ルと4つもつけて
司会者が発音していたのでわからなかったと言う小話だ。


世界史の教科書などでも歴史的事実を示す用語は、
現地の発音に準ずるようにしている。
が、これも言っては何だが現地人に通用しないばかりか、
行き会ったりばったり感が否めない。
戦前の本を読んでいると良かれ悪しかれ
留学先や習った言語に準じて表記している。
漱石なら英語、鴎外ならドイツ語、
荷風なら仏語(あるいは英語)といった具合に。
さらに場合によっては原語で綴られている。
ただ縦書きに横文字が入ると読み難いと私は思う。


バックラッシュ!』という本のキャンペーン・ブログに
デビューボをめぐる笑話が出ていたが、
ある意味でそういう表記の方が古いのかもしれない。

参照:http://d.hatena.ne.jp/macska/20060126/p1


以前、フランス人がエルマン・エッセが
どうのこうの言っていたが誰なのか
さっぱり分からなかったが、
紙に書いて綴りを読むとヘルマン・ヘッセだと分かった、
という話をとあるドイツ文学の研究者に聞いた事がある。
(某コナン君のトリックネタにも使われた無音のアッシュ)


この辺は翻訳文化輸入大国の悲しみよの、
と我輩はマグカップに淹れた緑茶を飲みつつしみじみ思う。
不毛な写実は永遠に繰り広げられ、
最大に膨れ上がったところで
針の一突きで避けてしまうのだろう。
もはや、勝手にしやがれ、である。