現実と迷信


占いは良く当たる。
ただし、主観的事実として。
客観性が皆無と言うだけの事だ。
当たらぬも八卦、当たるも八卦である。
迷信を愚昧であるとして退けるのは良くない。
この世に確かな物など何も無い。
無い故に人は確信をもって語ることを欲する。
また、それを欲して作り出す。


真理を追究する哲学でさえ、
「懐疑する私自身は疑いえない」
デカルトが吐露し、
ニーチェに至っては
「あらゆる真理はその生み出したる者にとって
 都合の良い誤謬に過ぎない」
と喝破したではないか。


軽蔑も不信もその一方的なるは
過信と何ら変わりない。
それらは余裕の無さから生じる。
迷信に対して我々は節度をもって付き合えば良い話だ。
それ自体の合理性はさほど重要ではない。
認識においての、
あるいはアポステリオリな事柄に関してのみ、
我々は合理的であることを求められる。


真の意味での現実主義とは、
現実を縦横無尽に切り開く術のではなく、
現実に教わろうとする態度のことである。
多くの人々はことをあまりに急きすぎる。
問題の以前に解答を見出し、
眼前の数字を見ずして解法を見出そうとする。
おそらく我々の前にある問題の多くは解決されることより、
まず何よりも眼前にあるものをまず知ることを欲している。