晨と夕


池袋駅の長く入り組んだ薄暗い通路にぼさぼさの髪をした浮浪者が枯れ枝のような手で膝を抱えて座り込んでいる。生気の失せた黒い眼を通行人に向けているが、視線を交わす通行人は一人も居なかった。ここでは誰もが頭を上げて歩いているが、彼らは何を見ているのだろうか。地下とも地上かも分からぬ長い通路を抜けて改札を通ると、托鉢僧が独り身動き一つせず経を上げている。耳を傾ける者は一人も居らずどこか空々しい。されど、場違いなのは我々なのか、彼なのか。駅前に出ると晨とも夕とも知れぬぼんやりとした薄明かりに辺りが包まれていた。街灯が助け照らす街中では光の境界が判然としない。自分が蔭りに向かって歩いているのか、照らす方へ向かっているのかさえ定かではない。時計を忘れてしまったらしく大まかな時分すら分からない。時間の感覚が麻痺してくると、自分が今何処に居るのか、立っているのか歩いているのかさえ分からなくなってくる……


現代日本の精神を思う時、私が囚われる感覚はこうした薄明かりの戸惑いのようなものだ。ホイジンガが憂えた「蔭り行くあした」でもなく、ツヴァイクが想い焦がれた大戦前のウィーン、黄昏に輝く「昨日の世界」でもない。不明というよりは未明の靄に覆われた、薄明かりの世界に生きているような気がするのである。思えば、日章旗のあの深い紅色は、落日の燃える様なのか、それとも曙光の煌めきなのか。ビルの狭間から漂うように差す弱弱しい光を見つめて、ふとそのようなことを考えてしまう。


 何かを見る時、あるいは何かについて語るということは、自己の精神を語ることに他ならない。もちろんそれらは直接的なものではありえない。しかし、風景を描写する目は同時に見た者の立ち位置を示すように、何かについての言葉や見方は彼自身の精神を暗示する。それ故に「日本精神とは何か」といったものを語ろうとする時、私は躊躇ってしまう。精神という出発点を終着点として語ることに違和感を覚えるからだ。日本人である私が考える時、母語にして国語たる日本語が私の思考の前にある。日本語なしには私は語ることはおろか、考えることも出来ない。思考の結果、想像される事物は物そのものではなく、言葉が物を喚起しているに過ぎない。つまり、事物に対して言葉が離れた時、私はそれを考えているのではなく、ただそれを見ているだけなのだ。「日本精神」はアプリオリに存する以上、私はそこから始めるほかはない。私はその自覚を「自信」と呼びたい。