「ケータイ」文化と若い世代


この頃は馬鹿の事を「ゆとり」という風に
腐すのが流行のようである。
権威を馬鹿にして茶化す現代の江戸っ子、
2ちゃんねらーの中の人たちも、
10代の携帯電話を中心とした、
絵文字顔文字の表現、
所謂「ケータイ小説」などに関しては、
かなり辛辣に揶揄している。


その口の悪さは、
特攻隊員のワンパターンな最後の言葉を
国語が貧しいとのたまった柳田国男や、
紀元節復活に関して神奈川知事と会談した
福田恒存に対して左翼青年が
売国奴!」とどなりつけたのを、
近頃の若いのは言葉が貧しいね(語彙が乏しい)
と福田が茶化した事を連想させる。


ちなみに話は逸れるが、
かつての左翼はよく売国奴とか言っていたんだが、
最近はそういう言葉遣いは右翼だという風に
思い込まれている方がいらっしゃるがそうではない。
特に尋常ではなかったのが、
学生運動を取り締まった警察官に対する罵倒で、
権力の犬とかはまだ可愛いもので、
中卒の癖にとか、嫁が来ないぞとかになると、
人間性の欠片も見えない狂人の喚き声に聞こえる。
あの馬鹿騒ぎの最大の犠牲者は
事故死した学生ではなく、
名も無き多くの警察官たちだったのだろう。


さて本題であるが、
言葉(日本語)が貧しくなっていると言うのは、
我輩も痛感している事だが、
これは何も十代に限った事ではないだろう。
我輩も年長世代にはよくそういう事を言われるし、
彼らと話していると自分の教養の無さに気付かされる。
たとえば、最近は
「突然のお手紙を差し上げます
 ご無礼をお許し下さい」
などと無礼な言葉遣いが
手紙のマニュアルでも書いてあるのだが、
そういう時は「卒爾ながら」と書くのである。
斯く言う我輩も以前はそういう風に書いていたので、
他人の事をどうこう言えたものではない。


単純に語彙が乏しいこともさることながら、
我々が日本語に対して無理解だということもある。
たとえば、役に立たない英語教育おかげで
時制を覚える訳だが、
厳密に言うと日本語に時制はない。
英語などと比べると相当にいい加減で、
状態に振り回されてころころ形を変える
アスペクト(様相)言語なのである。
こういうことを徳育云々の前に
国語で教えて欲しいものだ。


言葉の成り立ちも語彙も良く知らない若者たちが、
それでも何かを表現しようとすると、
携帯メールの顔文字やら絵文字やらになり、
所謂「ケータイ小説」になるのではないだろうか。
実はこういうことは履歴書でも言えることで、
ある大手出版社の人が教えてくれたのだが、
80年代くらいまでは履歴書には
きちんと文章を書いて寄越して来たのに、
90年代くらいからは履歴書に
イラスト描いたりする連中が出て来たそうで、
大抵は文章になっていないらしい。
何と言うか自分をキャラクター化しているようだ。


そういうキャラクター志向の個性やら
個人主義者というのはほとんど例外無く、
自己中心的な人々が多い。
そのせいか彼ら若い世代と話していたり、
掲示板やメールでやりとりしていると
あることに気が付かされた。
それは彼らのコミュニケーションが、
一対一の形式をとることが多いことだ。
文章を書くと誰か相手を前提に書くし、
掲示板などでの書き込みですら、
ギャラリーと言うか外の目をほとんど意識してない、
そういう言葉を綴っている。
そのせいか、抽象的なことや
普遍的なことを書くのが苦手なようだ。


抽象的な言葉が後ろに引っ込んで
そこで前に出てきたのは体ではないだろうか。
我輩は古い人間なので、
顔文字やら絵文字やらで彩られた
デコレーション・メールなどを
読まされると色んな意味で疲れるのだが、
思うに、あれは仕草やら手振りなんかを
代弁しているものなのだろう。
彼らに字だけで返信すると
一応に態度が冷たいと怨み節が返ってくる。


同様に地の文が引っ込んで、
限りなく会話に近くなっているのが、
所謂「ケータイ小説」なのだろう。
我々は口語体というものを国語の時間に習うわけだが、
厳密に言えば口語体というのは文語なのである。
実際の会話には到底使わないような言い回しや、
セリフ以外に地の文などがあるからだ。
ケータイ小説」の稚拙な表現に呆れる方は多いが、
実際知的な会話などをする人間などそうは居ない。
北村薫さんの小説に出て来る女子大生は
本当にウィットな会話をするのだが、
ああいう女子大生はどこにも存在しないのだろう。
ある意味では「ケータイ小説」というのは
むしろリアルなのである。


こういう言葉の変わり様が
良いか悪いかは別として、
言葉を理解しようとする前に、
言葉に教わるという姿勢だけは、
変わらずに残って欲しいものである。
豊かさというのは分かっていることよりも、
分からないことにこそあるのだから。