現代の思想風景について


「思想狂いは亡国の兆し」。こういう皮肉をたれたのはニッコロ・マキアヴェッリであったろうか。実際、古代ギリシアアテネにおいてソクラテスプラトンアリストテレスといった哲学者達が綺羅星のように現れたのは国が傾きつつあった時代であった。ソクラテスの生きた頃にはペロポネソス戦争アテネの敗北の終わり、アテネギリシアの覇権競争から完全に脱落してしまった。アテネに代わるテーベの栄華も一炊の夢と消え、やがてギリシア全体もアリストテレスの時代にマケドニアに屈服させられたのである。マキアヴェッリ自身が生きたルイタリア半島もまたルネサンスの華やぎの陰で度々外国勢力に蹂躙せられたし、ドイツのヘーゲルはナポレオンによる占領の最中にかの大著『精神現象学』を上梓している。


振り返って現代の我が国であるが、進歩といった核や近代という軸を失ったためか、思想や精神が弾け飛ぶように散在している。ブログに占める言語の内日本語が一番多いと言われるほどにブロガーは無数に溢れ、NHKの『日本の、これから』という「市民」討論番組では、多くの自称「市民」氏が誰もが一家言あるかのごとく論を競っている。今や事件が起これば踏み絵の如き良心の確認が行われ、沈黙は尊ばれない。ある種の教条主義というか、絶対主義とでも言うべきものが未だ逞しく残存しているようである。


戦後日本の左翼思想史を顧みて竹内洋氏は「なぜ学生の左傾化は終わったか」という問いに対して「戦後教育を受けた戦後派が人口のほとんどを占めるなかで、マルクス主義をはじめとする社会主義思想は、部分的、表層的、我田引水的であったとしてもすでに大衆レベルで常識的知識化してしまったことによるのではないか」と述べ、「いまやどんなおばちゃん(おじちゃん)でも、平等や権力、人権について一家言ある時代になった。――中略――左翼は敗北・衰退したのではない。大衆的進歩主義思想というひらがな『さよく』としてむしろ草の根レベルでは勝利したのである」と結論付けている。


少々主観的な印象論になってしまうが、今もって左翼思想の影響と言うのは強いように思われる。我輩がブログというものを始めてみた頃にそこで最も驚かされたのは、自称「リベラル」氏がさも当然の如く主流をなしていたことだ。かつて吉本隆明は「戦争に抵抗したという世代があらわれたときは、驚倒した」と述べたが、我輩はブログ界隈の周囲を見渡して「リベラル」を自称する人々が多いのに驚愕したのであった。まったく「リベラル」などという思想的立場何時の間に確立していたのであろうか。もっとも変な思想が出てくるのは今日に始まったことではない。右翼は右翼でY染色体がどうやらとか変な事を言う人が居るようであるし、明治の社会主義思想の影響を受けた昭和のファシストたちのように、最早、右翼とも左翼とも言い難い思想が多々見られる。


「左翼」とか「革新」とかいった思想的立場が「リベラル」に収束する一方で「右翼」に対しては色んなレッテルが生み出されているようである。曰く、「歴史和解を阻害する修正主義者」「大いなるものに一体化したがるヘタレ」「バックラッシャー(反動)」「反知性主義者」「『諸君』『正論』のような論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する亜インテリ、田吾作」。言論の総力戦といった趣であるが、こうしたレッテル張りはまだ可愛い方で、広大なネットの海には『右翼討伐委員会』とかそういう不穏当な言論もあって、左翼の論者の中には「汚辱にまみれた歴史を受け入れ恥じ入り続けなければならない」というようなことをおっしゃる方がいらっしゃるのだが、彼らであればああいうものを見たときなんと評するであろうか。王の首を刎ね、享楽をこの世の悪徳として一掃し、教会の偶像を破壊して回ったピューリタンやヨーロッパの異分子としてのユダヤを根絶やしにすることを考えたナチスを思い起こさせるこの種の発想は、遠近はあれどいずれも「ホロコースト」に通じる道であるように思われて仕方が無い。


この頃はある種の潔癖症のせいか、これは良いのだけれどあれは駄目だとか、敢えて何々するとか、ある種の留保というか保険をした言論が見受けられる。「パトリなき愛国心はだめだ」とか「憂国は良くて、愛国はダメだ」とか「ナショナリズムはだめだが、愛国心は良い」といったものだ。かつて松本健一氏は、右翼思想に内在的にアプローチしているが、ミイラとりがミイラになる危険があるのではないかとある評論家に言われたそうだ。それに対して松本氏はそうした批判者は他者の言論や精神をマルクス主義など外にある他の思想によって別の思想を批判する外在的批評を旨としている、だから批判者はすこしも傷をおわないのだと言い返しておられる。言葉や対象は違うが、かつて福田恒存氏は進歩主義に端的に表れていた外在的批評の気軽さを「自己抹殺病」と呼び、「それはあらゆることがらから、自分自身の存在そのものからさへ、自分を抜き取ってものを考へるばかりでなく、さうしてはじめて公正なる判断に到達しえたといふ安心感をえる風習」と評しておられた。


昨今、「病んだ現代」とか「若者の病理」とかそういう言説をよく見かけるのだが、そういう論者は自分をどこか例外視しているのではないか。あるいは逆に薔薇色の未来を語る者も本当に未来を語っているのだろうか。単に過去を批判し、否定していただけではないか。裏返された過去物語にとって、未来は代替のきく意匠に過ぎない。そういう意味で暗い未来は明るい未来の裏返しに過ぎず、根本的には相違ない。