ことば、コトバ、言葉


石原都知事という人は直感的な人物らしく、
しかも根が直情的だから
しょっちゅう舌禍事件を引き起こす。
随分前にフランス語は国際語失格だのと言って、
裁判沙汰になったことなどその典型であった。
ただ、あの事件において、
フランス語が国際語として失格である
という発言の妥当性*1はともかくとして、
都知事の意外な面を見ることが出来た。


彼はアメリカを強く意識しているし、
昨今のグローバリゼーションの波にも
強く関心を持っているようだ。
元来の発言からして、
グローバル化には好意的ではないと思っていたが、
どうやらそうでもないらしい。
また、道徳教育や国旗国歌の問題から見えてくる、
ナショナリスト国粋主義者、伝統主義者的な側面も
側面であって、彼の全体像ではないようだ。


彼は芸術家的であるが、学者的ではない。
発言には一貫性が見当たらないし、
整合性や体系性も無い。
思想と哲学の違いは何かというと、
それは体系性を持つか持たないかという事なのだが、
その点において、彼には哲学が無い。
非常に直感的な人物である。


今回の発言で驚いたのは、
そのフランス語に対する批判そのものというよりも、
その論拠が合理性や普遍性であったことだ。
かつて、国際シンポジウムに参加した彼は、
アメリカンスタンダードなる日本生まれの英語で、
痛烈に現在のグローバリゼーションを皮肉った。
しかし、そもそも合理主義的でなければ、
スタンダードというものは引いてくることができない。
この点において、今回の発言との一貫性が見られない。


そもそも、言語それ自体の合理性や
普遍性などは眉唾物である。
国際語として通用するかは、
単に国力、国威の反映であり、
流行的なものに過ぎない。
言語を合理的に批評すれば、
最も国際的な言語である英語すらも
合理的ではない部分を持っている。
例えば、英語の発音は表記に対して極めて不規則である。


医学の分野でいまだ影響力を保っているドイツ語は、
表記に対して発音が極めて忠実な言語であるが、
21〜99を数える際、一の位から読む。
11〜19までは英語に似ているが、
例えば21は、「ein und zwanzig」
1と20というような数え方である。
英語で言い換えると、「one and twenty」となる。
これは見慣れぬものにとっては大変奇異に感じる。
また、ラテン語の影響が大きいから、
格変化の種類も非常に多く、
文法は精巧である分、煩雑である。


我々の母語にして国語たる日本語などは
合理性の対極にあるのではないか。
漢字という表意文字に、
ひらがな、かたかなという表音文字
計3種類もの文字を使用する。
時制もいい加減で、
状態に振り回されるアスペクト
代名詞は一つではなく多数あって、
俗に「ウナギ構文」言われるように、
主語も用言もいとも簡単に省略されてしまう。
我が母国語ながら変な言語である。


言語を合理的なものに変化させ続ければ、
それは言語でなく純粋な記号に近づいていくだろう。
それこそ数字的な文字や言語ができあがる。
言語は合理性と特殊性から成り立っているのであり、
合理性のみでは成り立たないものである。
むしろ、言語を特徴付けているのは、
その特殊性、つまりは非合理的な側面なのだ。
言語はバグの多いプログラムであるが、
人はむしろそのバグに愛着を覚えるのである。


あの裁判がその後どうなったかは知らないが、
ただこの頃は事件にしても言説にしても、
ある種の皮肉を感じられずにはいられない。
理解できない訳ではなく、
理解し難い訳でもなく、
ただ釈然としないもやもやとした
嫌な感じが残る。
この頃はそういう事が多い。

*1:フランス語の性質はともかく、事実として、フランス語は現在も国際語として通用している。例えば、IOC委員は英語とフランス語の両方が必修である。少なくとも、どこぞの極東の島国言葉に比べれば遥かに国際的であろう