軽い時代の軽い知性


軽い時代には軽い思想しか流行らないのかもしれない。
学生運動を経験した世代の
教条主義にもうんざりさせられるが、
それ以降の軽い知性にもげんなりする。


若手の評論家が書いた
石原莞爾についての本を紐解けば、
未だに関東軍電撃戦のイメージで彩られていた。
僅か一個師団で、しかも寒冷地装備すら持ってなかったので、
戦地では兵士が凍傷でバタバタ倒れていくという有様で、
実際は本国からの派兵頼りに過ぎなかったのであるが、
当時の神話的イメージを払拭出来ない人が
今でも少なからず居る。
困った事である。


史料に基づかない物語派にも困るが、
歴史的和解云々という一派にも困ったもので、
歴史家は史料批判して
史料操作していりゃいいのであって、
道徳家になる必要はまったくない。
ある種の似非モラルが
昨今の言説を彩っている。


よく「政治の美学化」という
ベンヤミンの言を引く方がいらっしゃるが、
ベンヤミンの“解釈”が
必ずしも妥当であるとは思わない。
むしろ、ある種の倫理志向、
近代にあって新しき中世を目指さんとするがような、
そういう運動をファシズムなり、
コミュニズムと言うのではないかと思う。
認めたくはないが、
ホロコースト(或はラーゲリ)のモラルとでも言うべき、
そういうものがあるのかもしれない。
近年で言えばオウム真理教のテロル思想の様な。


要するにモラルが軽くなるので、
その反動としてモラルの思想が興隆するのである。
個人として自由を満喫できる代わりに、
ある種の寂しさにかられたり、
脱落した時に誰も救ってくれない、
という事態が起こる。
そうした「自由」に著しく
不適応を示した人々が行き着くのが、
宗教なりモラルなりなのだろう。
「貧しき者こそ幸なり」と言った所か。


この頃は右も左もモラルを模索している最中のようで、
連日、道徳お説教を繰り返すものもあれば、
朽ち果てた功利主義のゾンビを蘇らせようとするものある。
しかし、今日日の世知辛い世の中において、
卑怯は駄目のお説教や、
最大多数の最大幸福などを唱えても、
果たしてどれだけの賛意を得られようか。
良心の踏み絵を迫るが如き言論の数々を眺めていると、
そもそも良心を成り立たせる倫理とは何であったか、
あるいは今日におけるモラルとは何なのか、
そういう根本的な事がかえって
見辛くなっているように思えるのである。