オルテガ『大衆の反逆』


目ぼしい書評をグーグル先生に見繕って貰った所、
「大衆」の暗黒面を強調した理解が多い。
思うにそれは読みが浅いのではないか。
『大衆の反逆』のオルテガは、
以下のような「近代」解釈をしている。

近代文化への信仰は悲しくも淋しい信仰であった。明日もその全本質において今日と同じことであることを知ることであり、進歩というものは、すでに自分の足下にある一本道を永遠に歩み続けるということにのみあるのだということを知ることであった。こうした道は、むしろ、どこまでいっても出口のない永遠に続く牢獄のようなものである

今日われわれは、明日何が起こるか分からない時代に生きている。そして、そのことにわれわれはひそかな喜びを感じる。なぜならば、予測しえないということ、つねにあらゆる可能性に向かって開かれているということこそ、真正な生のあり方であり、生の真の頂点というか充実だからである

要するに近代は単線社会で、
ポスト近代はその単線が失われたが故に、
結果として良くも悪くもベックの言うような
「リスク社会」になっている。
我々は様々な意味で自由になったからこそ、
リスクについて絶えず考える。


自由は何故不安を齎すのか。
それはおそらく我々にとって
自由がすでに所与のものだからだろう。
与えられた自由は我々に絶えず選択を迫る。
そうした状況において、
「自由からの逃走」が起こるのだと、
E・フロムはナチズムを戦前において分析したのだった。


欧米人、特にアングロ・サクソンの思想家に顕著だが、
彼らは選択の結果上手く行くことを幸福と考えている。
選択は必然的に行われるが、
その結果は保証されていない。
だから我々はあれこれ悩んで決断し、
不安を一つ一つ解消していくのだろう。


最近、欧州が危機に陥った1930年代、
あるいは「西洋の没落」(シュペングラー)という
嫌な言葉が流行った頃の知識人の言説を
読むことにはまっている。
これが中々面白い。
まるで現代の我々を見ているかのようだ。


『大衆の反逆』のオルテガ
『朝の影のなかに』のホイジンガ
『黙示録論』のロレンス。
(これに関しては10回は読んだ)
そして、先にもあげた『自由からの逃走』。
さらには19世紀における先駆的な天才たち、
彼らは忍び寄る危機を直観していた。
もちろん現代の我々には忍び寄る戦渦とか、
ナチスのような危険な政党は存在しないのだが。
時代精神とでも言ったらよいだろうか、
考え方の基調が似通っているようなのだ。


ただ、「近代の超克」とか「ポストモダン」とか、
そういうものが今更流行ると言うのは理解出来ない。
そういう言葉の上っ面だけを眺めていても仕方が無い。
仮面を被っていようが素顔と言うのはあるものだ。
尻尾の無い蛇などは存在しない。
頭だけを見つめてその先にあるものを見ないなど、
そんなもの見たとは言えないであろう。