議論における中立性と多様性


ジェンダー」という言葉自体は比較的新しい言葉であるが、人間の本性を自然と社会との二つに分けたルソー以来、発想としてはそう目新しいものではない。自由主義や仏啓蒙思想の平等主義を源流とする歴とした近代思想の一つである。但しそれは一つの視点に過ぎないのであって、それを以って全てを語り、或はそれのみによって考えるのは誤謬を招きやすい。言うなれば「性」にはジェンダー(社会)という縦軸とセックス(自然)という横軸が並存しているのであって、ジェンダーという概念そのものを否定して掛かる所謂「バックラッシュ」も、ジェンダーのみを強調する「ジェンダー・フリー」も同様に妥当とは言い難い。たとい「性」において後天性が強いとしても、それは一貫性を持った意図によって設計された訳ではない。F・ハイエクが文化や社会は「自然のものでも人工的なものでもなく、また遺伝的に伝達されるのでもないし、合理的に設計されるわけでもない」と述べている様に、文化的事柄においては必ずしもそれ自体の合理性は重要ではないからだ。むしろ重要なのはそれ自体よりもその選択や判断における合理性である。たとえば女性が社会進出する事の是非に関して、一方の立場を積極的に称揚するのは中立的でも多様的でもない。思惟には演繹によるものと帰納によるものとに大別されるが、殊に理念は演繹によるものが多い。歴史家の林健太郎は演繹型の思惟に関して「一度ある固定観念が形成されると、すべてはそこから演繹され、事実による検証も他の要因からの反省も全然無視される。そして頭の中だけで問題の解答が与えられれば事物の実際的な解決はどうでもよいことになってしまう」危険性を指摘している。たとえば、ジェンダー的に中立であっても価値判断的に中立でない場合がある。ジェンダーという視点の場合、男女比率ばかりが注目されるが、多様性とは「性」のみによるものではない。国籍、学歴、出身、所得、障害の有無など様々な属性が存在する。実際の多様性とは手段や目的、ましてや理想などではなく、正に現実そのものに他ならない。即ち現実という「もの」の解釈が多様性という「こと」なのである。「もの」それ自体は実証不可能であっても、現実に対して理念は「こと」の領域に止まる。ところが気の早い不可知論者は「もの」と「こと」を峻別しないままに判断してしまっている。理念その「もの」においても個々の現実に当てはめる際には手段という「こと」の領域に収まるのであって、その合理性を問う事は可能であるし、「こと」同士の比較もまた可能である。不可知論は「もの」に対しては単純にあてはまるが、「こと」に関してはその個別において妥当性を問いうる。不可知論においてすら「こと」の判断における検証や反省を逃れる事は出来ない。中立性と多様性がしばしば混在されるのは、この「もの」と「こと」が絡み合うからだ。現実その「もの」から解釈を直接引くのは困難であり、あらかじめ何かしらの理念や問題意識(直観)に沿って行われる。したがって合理性は「こと」に対する「こと」に対して問われる。この実際の個別判断である所の二次的な「こと」に対するのが中立性であり、理念としての一次的な「こと」に対する並存や寛容が多様性なのである。ニーチェが『権力への意志』において喝破した様に「学問とは数学と解釈」であり、「事実なるものはなく解釈のみ」ではある。しかし、事実そのものではない解釈であっても明晰性を持たせる事は可能であり、その努力を怠るのは単なる知的怠慢に過ぎない。