二つの自由主義


結局の所、自由主義というものは、
19世紀に根本的な面において完成してしまった、
あるいは進歩をやめてしまったのではないか。
より、挑発的に言えば、20世紀の諸革命、
即ちファシズムコミュニズムというものは、
この自由主義に対する反逆であり反動であった、
そういう風に言えるのかもしれない。


はてなダイアリーのキーワードの
ネオリベラリズム(新自由主義)の説明がやたら
長くなってかえって分かり難くなっているが、
簡単に言ってしまえば、
「小さな政府、強い国家」
という事になるのだろう。
まあ、後者の方は巧みに隠されている感があるが。


要するに現代は「近代の超克」を諦めてしまった。
洗練された帝国主義としてのグローバリゼーション、
二つの自由主義の内の功利主義的な要素が
脱落してしまった“露骨な”自由主義
そして、特殊な世界構造をとっていた冷戦の崩壊による、
ナショナリズム(近代国家、国民国家)の強化。
現代は19世紀をより洗練した形で顕現しつつある。
それも静かに、そして冷ややかに、
横たわる思想の骸を横目に。


近代懐疑派による一連の批判によらずとも、
ポスト近代と呼ばれる昨今において、
「近代」に対する信仰や普遍性というのは
もはや回復不能なまでに損なわれてしまっている。
だが、未だにその枠組みを超えられてはいない。
何かを超えるとはアンチではなく、
未来が過去に対してそうであるように、
かつての一切を飲み込む何かの事である。
飲み込んだ結果、近代の骨組みだけが残った、
超克の残滓という風に言えるかもしれない。


自由主義と平和主義はよく似ている。
それは本来消極的なものであり、
それそのものに価値などありはしない。
良かれ悪しかれ反自由主義陣営というものは、
自由主義を肯定的に、積極的に見せる担保となっていた。
比較するものがなくなったとき、
それは自由主義自体の意味を失わせる。
かつて「自由の国」と讃えられし国は、
今や「一人勝ちの国」とまで称される。


自由主義は内部に何も置かないばかりか、
外部にも何も置かない。
我輩が昨今気にかかるのは、
徳育などという冗談まがいの政策
そのものの是非と言うよりは、
自由主義個人主義の下で、
一体如何なる倫理が可能であるかという一事に尽きる。


倫理はその本質から言って、
外部から内部への働き掛けであって、
自由主義的世界観とは馴染まない。
功利主義自由主義のそうした
非倫理性の隠蔽に一役買いはしたが、
果たして今日どれだけのものが、
「最大多数の最大幸福」などという
「マジナイ」を信じるであろうか。


今日、反動の仮面を被って民族の共同体を謳おうが、
革命家の振りをして人権や倫理を訴えようが、
過去の残滓を撒き散らしているのに過ぎない。
我々が今日語っている倫理とは、
もはや単なる過去の断片に他ならない。
それは体を成していないという意味で、
個人的な良心との区別が困難であり、
あるいは良心が先鋭化して、
社会的規範の衰退も相俟って空転している。