市民という言葉


しっくりこないが、
世間的には定着してしまった言葉に
「市民(社会)」とか「国際社会」、
という言葉がある。
後者の方は実にヘンテコな言葉で、
国際関係論の二大思潮、
リアリズムとリベラリズムのどちらも
「国際社会」をアナーキーと見ることに
もはや異論がないのだから、
「社会」なんて言葉は用いようがない。


もう一方の「市民」という言葉も変なもので、
世界史などでは同じ概念であるにもかかわらず、
ローマ市民権」と教えつつ、
キング牧師の「公民権運動」と教えている。
もっと奇妙なのは「近代」と
この「市民」とか「市民社会」の
概念が癒着している点だ。


ソーシャル・キャピタル」の概念で
有名なロバート・パットナム氏は、
イタリア政治の研究者でもあって、
彼がイタリア政治を分析した
『哲学する民主主義』によれば、
市民社会」というのは中世から続くもので、
歴史的な所産であるそうだ。
つまり、北部のような都市国家みたいなところでは、
自治や「市民社会」の「伝統」があって、
それが今日まで続いているのに対し、
強固な封建支配が布かれた南部では、
そういったものがなく、
未だに権威主義的で非民主主義的だそうな。


我々は欧州イコール「市民社会」で見ている訳だけど、
カール・マルクスの定義した封建制
実はドイツの極々一部にしか適用出来なかったように、
市民社会」も欧州では普遍的に
見られるものではないのかもしれない。
誤解を恐れずに言えば、
我輩はこの「市民社会」とやらを
「歴史的個性」としか見ていない。
我が国が歴史的に合議制を大変好んで来たのと、
同じ水準の話でしかないような気がする。