ディベートなんていらない


どういう経緯か知らないが、何時の間にやら
ディベートなるものが持て囃されて、
大学の講義などでも導入したりしているそうだが、
あんなもの一体何の役に立つのだろう。
トピックなり、イシューなりを策定して、
それに反対か、賛成かなんて、
お遊戯のディベートでしかやらないことで、
実際の外交交渉というのは
はっきりした意見などほとんど出ない。


はっきりした意見を言ってしまうと、
交渉の余地は狭まるし、大体、
どこで足下を掬われるか分からんので、
腹の探りあいを延々続けるのが常だ。
どういう立場を取ると言わせる事すら
鬩ぎ合いの中で決まるし、
時にはベトナム戦争の休戦協定のように
会議の席順とか椅子や机の配置すら、
熾烈な交渉劇が繰り広げられる。


どこぞの知事のNOといえない何たらとか、
マスコミがものをはっきり言わないことを
日本人の特徴としてバッシングしていたりするが、
あれのどこが悪いのか我輩には理解出来ない。
我が外交などであれば取り得る選択肢が少ない以上、
どだいはっきりした事なんて言えないのである。
経世実業の道とて大差はあるまい。


この種の錯誤は理想を目標ではなく、
義務と解するから起こるのだと思われるが、
それにしても口舌の徒というやつは
自分がやらない事や出来ない事を
時として他人に押し付けたがる。
まったく困った事である。
ディベートがどうたら、リテラシーがなんたら、
卑怯はいけない、武士道がどうたら、
和洋漢を問わずこの種の書生的発想を
押し付けてくる連中にはかなわない。
なんとかならんものであろうか。