拉致問題と言論について


北朝鮮による拉致被害者家族連絡会
通称「家族会」の横田滋代表が辞任せられ、
副代表の飯塚繁雄氏が新たに代表となった。
拉致問題が国民的一大問題と認識するに至ったのは、
地道な活動を行ってこられた
横田前代表の働きによるところが大きい。
病身を押してその任を全うせんとしたその姿勢は、
尊敬の念を我々に抱かせるものである。
今はただその労をねぎらい健康を願い、
また何よりこの問題の解決を期するのみ。


拉致議連救う会には保守的な政治家や、
あるいは壮士紛いの人物も居ると目されるせいか、
どうにもこの問題に関して
解決に積極的でない人々が居る。
しかし、真に問題であるのは、
そういう人々ぐらいしか彼らに
救いの手を差し伸ばさなかった事にあろう。
世に人権やリベラルを謳う人は多いけれども、
彼らの内、まさに権利を蹂躙せられ、
尊厳を辱められたる所の被害者とその家族に、
温かい協力の手を差し出した者がどれだけ居ようか。


あまつさえ拉致は幻であるとすらする言論を
我輩は耳にしていたのであるが、
そうした言論を為し、支持したる人々が、
謝罪したという事を寡聞にして耳にせない。
あるいは姜某なる日本語の上手い
お雇い外国人教師がやたらと北朝鮮
肩を持つ発言をしておったのであるが、
人権派」の弁護士川人博氏が糾弾し、
論争となるや瞬く間にTVで見ない様になった。
自分達が追い詰めておきながら「安倍逃亡」
などと書く様なメディア関係の諸氏は
この事を如何にお考えであろうか。


我輩は何も左翼やリベラルが嫌いな訳ではない。
ただ所謂ネット右翼と呼ばれる人々の内に
直情怪行の人間が多き事を憂う様に、
左翼と呼ばれる人々の中に
知性や現実に対する誠実さを見出す事が
困難である人が多い事を嘆いているだけである。


知性を以って権力に対立しようとする、
ジャーナリストや知識人は
往々にして行動的というよりも批評的になり、
言論においても対象を撫でただけの
薄い外在的言説となりやすい。
これは一種の悪癖のようなもので、
権力に対しては常に批判的であらねばならぬという
強迫観念に彼らはすっかり囚われてしまっている。


これは別段思想的立場のはっきりした人だけでなく、
たとえば、重村智計氏の『外交敗北』では、
タイトル通り小泉首相
外交敗北であると述べているのだが、
どの政権も成し遂げられなかった
北朝鮮に拉致を認めさせ、
一部であるけれどもその帰還を達成した事は、
敗北と言うよりは「成功」であったと
評価すべきであろう。


今日、知識人対する視線は厳しく、
マスコミへの不信感も根強いのであるが、
それはまったく故無き事とは言い難い。
しかし、ネットのそれも
「アンチ」という批評に過ぎないのであって、
行動でない以上、勝利などはありえまい。
今日、方法場所を問わずして、
実際ではなく言論において解決を急くばかりか、
あらゆる問題に口を出したがる。
結果として解以前に問題意識の水準において、
単純にして不徹底な事ばかりになるという有様である。
鼎の軽重を問う人は枚挙に遑が無いのであるが、
軽重を問う者はそれに見合った
秤の重石を言葉に持たせなければならない。
それが表現における倫理というものなのではないか。


それにもかかわらず、昨今目に余る言説を行う者が、
素人ばかりでなく玄人の世界にも見受けられる。
語るべき言葉を知っている人は、
語るべきでない言葉を自覚している人であり、
自分と自分ではないものを自身に内包している。
他人に寛容である人は自らに余裕を持つ人の事である。
徒に他人を責め、事物を否定する人というのは、
往々にして不寛容である事が多い。
そういう精神の遊びを見失っているのではないか、
昨今はそればかりが心配である。
不信からは何も生まれない。
やはり我々は何かを信じる事からしか、
何も始められないのであるから。