「帝国」と「Empire」


ラテン語に語源を持つ「Empire」という言葉は、
通例、「帝国」と訳されてきたが、
場合によってはむしろ「単一制」
とでも訳した方が適切なのではないかと思う。
「帝国」という漢語と
Empire」という英語とでは、
意味も成り立ちもまったく違う。
やはり言葉というものは
成り立ちを無視する訳にはいかず、
その歴史性を鑑みて
当てはめていかねばならないだろう。


このたださえ「皇帝」のイメージに
引っ張られがちな「帝国」という訳語は、
帝国主義(Imperialism)」によって、
さらに訳の分からん言葉になってしまっている。
今や過去の遺物と化したマルクス史観の
重商主義段階、自由主義段階、帝国主義段階と
資本主義の段階を示す言葉に過ぎないのだが、
俗語的に今もって使いまわされている。
スープと同じで何でもかんでも内包してしまうと、
薄い内容しかなくなるものなのだが。


http://d.hatena.ne.jp/kagami/20071125#p1
こちらのブログで「帝国」の概念を
機動戦士ガンダム00』と絡めて、
分かり易く解説してくれている。
ただ、我輩としては「デモクラシー」と
「帝国」は別の次元なのではないかなと思う。
前者がド・トックヴィル風に「社会状態」とするなら、
後者は国際関係や世界の状態であって、
(或いは中央と地方の関係、例えば仏の様な)
必ずしも両者は矛盾しないのではないか
と考えているからだ。


ここで言う「帝国」という概念は
地政学や戦略思想、国際関係論のもので、
今年の吉野作造賞をとった山本吉宣氏の
『「帝国」の国際政治学
 ――冷戦後の国際システムとアメリカ』
東信堂, 2006年)
で包括的に論じられている。


かなり単純に言ってしまうと、
単極構造(これが「帝国(単一制)」)、
二極構造(歴史的には「冷戦」)、
多極構造(所謂「勢力均衡」が機能する世界)
の3パターンが考えられ、
基本的に数が少ないほど安定的である。
要するにこの場合は世界をシステムとして見た時の、
形態なり状態を指す言葉に過ぎないのだが、
どうにも我が国ではマルクス史観の変型やら、
批判理論ばかりが流入してしまって、
冷静に検討されていない。
日本が覇権を目指す事は国力的に不可能だろうが、
周囲に潜在的覇権国が居る状態で、
それに無関心である事は自殺行為に等しい。


先のブログでは、
「現実における今後の政治状況は、
 ガンダム00が描くような、
 超越的帝国(覇権帝国)を目指すような世界形態ではなく、
 もっと混沌とした多極的なものになるのではないか」
という懸念を表明されておられるが、
この点、我輩はやや楽観的である。
要するに現在の世界情勢が冷戦前の世界観、
具体的に言えばモーゲンソー的
「パワー・ポリティクス」の時代に戻ったのであろう。
例えば19世紀はナショナリズムが盛隆し、
構造的にも列強が割拠する多極であったが、
バランス・オブ・パワー」が実現し、
モーゲンソーは「外交」が機能した時代と看做した。
もちろん、戦争はあったのであるが、
大戦の様な破滅的な事態は起こらなかった。
要するに中小の紛争自体は覚悟し、
温かい平和を諦め、冷たい平和に慣れる事、
それだけでも秩序は大分保たれるのではないか、
そういう風に見ているのである。