エゴイズムという迷宮


最近の若い人々というのは、
年寄りが思っているほど切れやすい訳ではなく、
むしろやさしい人が多いような気がする。
アルバイトの若い店員の接客は大抵丁寧だし、
切れるというのは別段若い人に限らないし、
大体、元々我が民族は切れやすいらしく、
戦国時代にやってきた宣教師達は
路上での刃傷沙汰に震え上がっていたようだ。


やさしい事はまあ悪い事ではないのだが、
そのやさしさが強さによる穏和というより、
むしろ弱さに起因にするものではないか
と思われる節がある。
NGOや福祉関連で働いている若者達を
見ているとつくづくそう思うのだが、
社会契約論的というか、
持ちつ持たれつというか、
そういう相手を前提としたやさしさなのである。


弱い人が増えたのに、
(ナベツネのような怪物は
この世代には生まれないだろう)
自分が自分のためだけに生きている、
そういう風に思い込んでいる人が
少なからず居るように思われる。
弱い人がそんな事を言ったって、
単なる強がりに過ぎないのであるが、
彼らの弱きエゴイズムは、
お互いの尊厳を守るべく、
丁重に線引きしてささやかな城と成す。
そのせいかは良く分からないが、
若い人のコミュニケーションが
個対個に特化されつつある様に感じる。


ところで何度か書いている事だが、
我輩はあまり実体論を好まない。
事物を運動体として捉える。
たとえば、国家ならば目標に向かうように、
人間も自らが掲げた何かに向かって
自らを投企するのである……
と書くと少々実存主義的(しかも古臭い)だが、
このような考え方において、
エゴイズムとは単に滞留しているのに過ぎず、
それはどこにも行かず、
どこにも辿り着くところの無い、
言うなれば迷宮の如きものに見えるのである。


現代の個人主義は集団から分離することは教えても、
孤独の中で堪える術を教えてはくれない。
孤独というのは真空の中にあって、
なお個人の輪郭がはっきりしているからこそ
感じられるものである。
にもかかわらず、
現代日本の小説の孤独はむしろ透明な、
輪郭が溶けていく不安感を孤独として捉える。
恋愛小説であればなおのこと良くない事態が発する。
つまり、愛するが故に自分というものが
希薄になっていくのである。
愛するものと一体化する、
融けあうと言えば聞こえが良いが、
実際のところそれは意識の混濁に過ぎないであろう。


人の集まるところ、瞬く間に差異が生まれ、
区分が生まれる。これは避けうるものではない。
それは束縛であり、制約である。
しかし、我々はそうしたものに
我々の意識が繋ぎ止められているという逆説を発見する。
己を抑圧し、ともすれば
我々の我意を踏み躙るものに生かされている。
そして、だからこそ我々は愛しえない。
あまつさえその悲劇から逃避しようとすらする。
エゴイズムとはその逃避行であり、
それは入り口も出口もない逃げ道である。