むなしさの周波数


「ブログがつまらない」とかどうとか、
そういう“つまらない”議論があるらしいが、
そんな事で言い合っていて
空しさを感じないのだろうか。
ブログを書く事には頭を使うが、
知性はとりたて特別な地位を占める訳ではない。
独りで飯を食っている時に感じる、
気だるさと空しさと大差はないだろう。


煙草などと同じではじめるのは容易いが、
何事もやめるとなると途端に困難となる。
一度考え出せば、自分が底なし沼に踏み入るのを
否応なしに自覚させられるのである。
誤解を恐れずに言えば、全か無である。
しかし、一度知ってしまえば、
あるいは意識させられてしまえば、
徹底抗戦するか白旗を掲げるしかない。


これは人生のその他諸々も同様かもしれない。
自分の都合の良いように
選り好みなど出来るものではないし、
そういう意味での自由というものは人間には宿りえない。
こうして今、現に語っている事ですら、
言葉の不自由というものを痛感させられる。


この種の有用性を巡る議論を好み、
あるいは声高に何かを主張するのは、
ある意味で我々が自由だからだろう。
自由だからこそ我々は絶えず選択を迫られ、
決断に悩み、結果を案じて不安に陥る。
そして、何より、今や自己の行為を
即座に認めてくれる権威は、
良かれ悪しかれ存在しない。
だからこそ我々は“反省”と言うよりは、
“確認”を求めて絶えず存在証明を行う。


今や世界に“色”は存在しないから、
各々が各々の“色彩”を纏うようになっている。
世人はこれを称して“個性”などと呼んでいるが、
大抵は容易に剥げ落ちてしまう。
あるいは自ら次々に新しい“色”を纏い、
自分の色が過去においてどのようなものだったか、
いや今どのようになっているのかすら、
自分で分かっていないという有様だ。


この“色”のない世界において、
“色”の共有を試みる人々も居る。
善悪の色を求める宗教もあれば、
コミュニケーションの同質性を担保に、
それを倫理化させた「オタク」
と呼ばれる集団のようなものもある。
ウェブにおけるコミュニティの試みは、
話題(topic)を媒体にして倫理化し、
場(topos)を顕現させんするという意味で、
発想の次元において「オタク」に似ている。
だが、所詮は何れも断片の寄せ集めに過ぎない。
「オタク」であれば己の我意が
場の精神によって磨り減らされてくると
自己を守るべく直ちに離散する。
斯くして今やあらゆる個人、
集団が断片たる事を免れていない。


今日の不幸は仕える存在を
持たない事から来ている。
現代人は目指すべき山頂を見失ってしまったのだ。
過ぎ去りし頂に心奪われる人間も居よう。
しかし、これは同時に幸福でもある。
今や道筋はどこにも存在しないから、
我々は自ら方角を選び道を拓こうとする。
たといそれが散漫であったとしても、
自己があらゆる方向に向かって
解き放たれている事を感じているのである。
そういう意味でまったき「自由」とは
同時に底なしの「不安」なのであり、
行為の意味付けを絶えず試み続けねばならない。
そうして我々はむなしさを噛みしめつつ、
今日も息をするように何かを行い続けるのである。