良心と倫理


日本の言論というのは、
素人玄人の違いを抜きにしても、
感情と美意識を根底に
個人的な良心と倫理の不均衡で
彩られているように思われる。
元より社会的関心抜きに
個人的良心など成り立つはずがないし、
あるいは個人的良心を顧みない
倫理は狂信と区別しようも無い。


要するに我が国には、
西洋的な意味の倫理や論理は存しない。
倫理や道徳あるいは思想枠を語ると、
外在的な思想に癒着しがちであり、
大抵は空転して終わる。
今日においては個人の良心が
先鋭化して倫理を踏み躙るか、
あるいは倫理が個人を抑圧する。


今日において顕著なのは、
自己中心的な人間が増えたと言う事である。
これは単純に“わがまま”な人間が
増えた事を意味するのではない。
我々が考え、判断する上で、
自分の事を抜きには考えられない事をさす。
自己中心的な人間に顕著なのは、
他人の個人的良心に訴えながら、
倫理を顧みる事が一切無い事だ。


我々は異なるものとの間を通して、
普遍的なものへ運動する。
思索者は特殊な私から、
普遍的な私を目指す。
そういう意味において、
エゴイズムは停滞以外の何物でもない。
生きていく事とは、
私以外に私を見出す事であり、
純粋なエゴイストは
ついに己を知りえない。
私という存在は遍在する。
私という意識は
それを束ねる紐に過ぎない。


個人的な良心の欠点は、
感情に端を発する事が多い上に、
なおかつ利己心との区別が困難である事だ。
だからこそ、社会的関心抜きにはありえない。
ところが今日においては、
良心ばかりが先走って、
社会の事などどうでもいいというばかりだ。
だからこそ、我々は倫理の顔をした
良心に度々出会っては、
絶えず踏み絵を迫られる羽目に陥る。