国家とその擁護のための予備的考察の覚書


●但し書き


Pingをちゃんと飛ばしているはずなのだが、どうにもアンテナへの反映が遅れているらしい。理由はそれだけではないのだが、作業中にフリーズすると怖いので、覚書を積み重ねていくという意味ではなく、その日のうちに加筆するという意味での漸化式を採用する事にする。元々一度ウェブに上げてから最終の推敲と校正をしているのだが、読み手に対するマナー上よろしくないという話を耳にしたので、あらかじめ告知しておく。それにしても今更なのだが、抽象的な話題を取り扱うとどうしても紙幅が膨らむ傾向にあるようだ。まとめる時にはシャープにスパッスパッと切って行く様な調子の文章に仕立てたいとは思っているのだが、さてさて。


●「共和主義」と「自由主義」における「信頼」


ナチズムとナショナリズムについての見解に力を入れ過ぎた結果、元来そこで主たるテーマとして敷衍されていた、「信頼」という概念への考察がおざなりになってしまった。この「信頼」という言葉に対して、良くも悪くも修正主義*1的な傾向として、近年は「ソーシャル・キャピタル」論の流行もあいまって、共和主義的な見解が広く流布するようになっている*2。しかし、特に終風翁の「信頼」観は、共和主義ではなくて自由主義功利主義のそれであり*3、根っこにあるのはジョン・ロックの社会契約説(――ロックにおける「契約」の原語は「Trust」である)であるように思われる。ロックの国家観においては司法がもっとも重要視され、それは調停者としての国家(――所謂「リベラリズム的国家観」)なのである。


●共同体(社会)は、個人の敵になりうる。


ホッブズはもちろん、自然状態を理想的に見たロックもまた自己保存を重視した。こうした身体への自由をより洗練した形で、今日の我々に伝えかけているのが、『自由論』のJ・S・ミルである。「文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である」*4というのが、彼の所謂「危害原理 Harm principle」である。ド・トックヴィルとも交流があったミルは、『自由論』において「多数者の専制」という言葉を用いている。ミルはこの「多数者の専制」が国家だけではなく、社会が振いうる暴力として警戒している。

思慮ある人々は、社会それ自体が専制者であるときには、つまり集団としての社会がそれを構成する個々の人間に対して専制者であるときには、その手段は、行政官の手によってなしうる行為のみにかぎられているのではないことに気が付いた。(――中略――)なぜなら、社会的専制は、ふつう、政治的圧制の場合ほど重い刑罰によって支えられてはいないが、はるかに深く生活の細部に食いこんで、魂そのものを奴隷にしてしまい、これから逃れる手段をほとんど残さないからである。したがって、行政官の専制から身を護るだけでは十分ではない。支配的な世論や感情の専制に対して防衛することも必要である。


社会や共同体による支配は、法による支配とは違って、必ずしも明示しうる形を取らないが、そうであるからこそ逆に陰湿な支配を生む。先日の覚書の方でパットナムの『哲学する民主主義』を引きつつ述べた、イタリア北部の高い制度パフォーマンスを発揮する「市民社会」と、南部イタリア(ナポリのゴミの山!)との落差は、社会が個人にとって、時に危険な存在でありうる事を、端的に指名していると言えよう。また、自治についてミルは「『自治』とか『民衆の民衆自身に対する権力』ということばでは、事の真相を伝えることはできない」と述べている。なぜなら、「権力を行使する『民衆』は、権力を行使する民衆と必ずしも同一ではない。また、いわゆる『自治』とは、各人が各人によって治められることではなく、各人が他のすべてのものによって治められることである」からだ。


●「そもそも国家とは一体何であるのか
  ――米国『建国の父』達の問い掛け」

政府の悪用を抑制するためにそのような手段が必要であるということは、人間の本性を反映するものかもしれない。しかし、政府自体が、人間性の最も偉大な反映でなくして何であろうか。人間が天使であったならば、政府は必要ないだろう。天使が統治するならば、政府に対する外的な統制も内的な統制も必要ないだろう。人が人を統治する政府を構築するに当たって最も難しいのは、まず政府が統治の対象を統制できるようにし、続いて自らを統制するようにしなければならないことである。


『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』*5
第五十一篇「抑制均衡の理論」(J・マディソン)


「政府自体が、人間性の最も偉大な反映でなくして何であろうか」。ジェームズ・マディソンはそう我々に問い掛ける。この『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』は、当時の連邦憲法の批准問題に端を発した、一種の政治抗争の一環として発表された論考であり、党派的対立抜きには語りえぬものである。しかし、この生まれたての憲法司法権の守護者であったジョン・マーシャル判事が、「マカロック対メリーランド州事件」に際して、「この規定は、来たるべき時を超えて持続し、その結果、人間に関するさまざまな危機に当てはめるべきものとして憲法に盛り込まれている」のだと述べ、さらにはアメリカ合衆国憲法「われら合衆国の人民は、より完全な連邦(a more perfect union)を形成し、正義を樹立し、国内の平安を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する」という前文に込められた彼らの願いと精神に思い至った時、これらの論考が党派的対立(プロパガンダ)を超えて、今日なお多くの示唆に富んでいると信ずる。


この憲法に対してフェデラリストではなかったF・フランクリン博士は、憲法制定会議が頓挫しかけた際に、周囲を説得して採決を促した。

「議長閣下。この憲法草案には、私が承服できない条項がいくつかあります。しかし将来も絶対承認できないかどうか、それはわかりません。これだけ長生きしますと、最初は自分が絶対正しいと思ったのに、追加情報を得て、あるいはよく考え直した結果、重要なことがらについて後になって意見を変えたことが、何度もあります。歳を取れば取るほど自分の判断が絶対だとは考えず、他の人の判断を尊重するようになりました。(中略)ですから、私はこの憲法草案に賛成します。なぜならこれより完璧な草案は望めないと思うからであり、またこの草案が最良でないと言い切る自信がないからです。(中略)われわれ自身のために、そして子孫のために、この憲法草案を全員一致で、それぞれの州に推薦しようではありませんか。制憲会議の皆さん、まだ反対意見を持っていても自分が絶対正しいと思う気持ちをこの際ほんの少し抑えて、草案に私と一緒に署名してくださいませんか」*6

この博士の立派な態度には、どちらかと言えばフェデラリストに共感する我輩でさえ感銘を受けた。昨今の我が国会の現状を見るにその思いが深まるというものである。


●共同体の悪と人間本性


「共同体はつねに非人間的であり、それもかならず人間以下である。それは、ついには、生きた血液が流れず無知覚なるが故にもっとも危険きわまる暴君となる」と前世紀の文学者D・H・ロレンスが『黙示録論』において、例の預言者じみた口調で断言している。共同体、つまりは我々の集団意識が、まったき人間足り得ない事を指摘しつつ、彼はまたいかなる個人も純粋な個人足り得ないと喝破する。

この世に純粋な個人というものはなく、また何人といえども純粋に個人たりえない。大部分の人間は、もしありとしても、ごくかすかな個人性を所有しているにすぎぬ。彼等は単に集団的に生活行動し、集団的に思考感情を働かせているだけで、実際にはなんら個人的な情動も、感情も、思想ももちあわせてはいないのである。彼等は集団的乃至は社会的な意識の断片にほかならない。つねにそうであったし、また、今後もそれは変ることはないであろう。*7


ロレンスは言う。人間には集団的な側面と、個人的な側面とがあり、その片面だけを剥ぎ取って成り立たせる事は出来ないと。「イエスも他人の前に出るやいなや、一貴族となり、また一人の師となった。仏陀は常に王侯仏陀である。アッシジの聖フランチェスコは、彼もまた大いに謙虚ならんと努めながら、事実は弟子たちの上に絶対権力を振う微妙な手をこころえていた」。人間の権力意志は否定しきれるものではない。人が集まればそこに序列が生じ、或る者は指導者たらんと欲し、また或る者は序列に沿って、自らをその中に当て嵌める事を欲する。権力は厳に存在し、これからも続くであろう。


しかしながら、権力否定の思想であるアナーキズムが、人間の個人の尊重の思想である事を我輩は否定しない。「同じ人間でありながら、勤労する人間が、窮乏のなかに生きねばならぬことを人間性の侮辱である」*8と看做したバクーニンの思想は一面の真実があると言わねばならぬ。いみじくも松田道雄が「日本のアナーキズム」で述べているように、「理想的状況に到達するには、私たちは『個人』を支える一次集団のモラルを外延的におしすすめる方法によって可能であるのか、それとも一次集団を支えるモラルとは別個の階級という二次集団を支えるモラルを設定することによって、一次集団のモラルを無視し、『個人』を階級のために犠牲にしていいのか」という問い掛けは、現代の我々にも重く圧し掛かって来る。


「階級」という古い言葉に抵抗を感じるのならば、それを「党員」なり、「市民」なり、「国民」なりに読み換えてみればいい。どれを選んだところで同じ事だ。当時においてはアナーキストマルキストに対してモラル上の疑念を呈した。今日においては、功利主義に対して異議を唱える自由主義者の姿と重なって見えよう。そうした問い掛けに対して、留保しうる余裕や寛容さこそが、文明の精華なのではないか。どんなに正しい事であっても、一切の抗議を受け付けない様な正義を、文明的であると看做す事は出来ない。それはまったき「野蛮」である。そして、所属する共同体の違いや信念の党派を超えて、そうした対立や野蛮から個人を守る事が出来るのは、共同体ではなく国家である。文明的で、道徳的に生をまっとうし、次代に繋いでいくために、アナーキストや偉大な個人主義者達に学びながらも、自身はトーリー的心性を持つナショナリストである我輩は、だからこそ、今日の多くの国家批判者に問いたいのだ。

「政府自体が、人間性の最も偉大な反映でなくして何であろうか?」

と。

*1:*注:Revisionism。修正主義という言葉を我輩は事後的に被覆された思想、或は思想史を指して使っている。クローチェ的な現代の関心としての歴史は、この種の傾向に陥り易い。つまりは、過去の評価において現代の“前段階性”や、過去における“現代性”を強調する史観である。

*2:*注:個人的な見解としては、それは「自治」についてしか語りえない性質のように思われる。市民社会と言うよりは、地方自治(住民=地方自治体)の問題でとしてであり、国家は監督者として問題の外部に排除されている。そのためこの種の議論を下地にして、「国家」について議論する事は余り適切ではないように思われる。

*3:*注:共和主義者は共同体や市民であることの諸義務――あのマキアヴェッリでさえ、行き着く所が市民の「徳 Virtu」なのである――を強調してきたが、自由主義者個人主義と個人の諸権利を強調した。★参照:R・D・パットナム『哲学する民主主義』NTT出版

*4:☆引用:訳文は岩波文庫版から引かせて頂いているが、これから読む方には光文社古典新訳文庫版をお薦めする。

*5:☆引用:http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-outline-government02.html なお、この訳文は他の翻訳と比べるとかなり大胆な意訳で、正確な訳文は岩波文庫か福村出版の『ザ・フェデラリスト』を参照して欲しい

*6:☆引用:阿川尚之憲法で読むアメリカ史〔上巻〕』

*7:☆引用:D・H・ロレンス『黙示録論』ちくま学芸文庫

*8:★参照:『現代日本思想大系16 アナーキズム筑摩書房