モラル=全体性について


予定通りにまとまらないので、とりあえず部分的にエントリの形にしてみる。それにしても、考えを重ねて行くと、自分が意外に功利主義を否定していない事が分かって、どうしたもんかと悩む。ミルはともかく、ベンサムなどに至っては生理的嫌悪感と吐き気を覚えるほどに、思想的にも人間的にも受け付けないのだが。ただ、某大屋先生みたいに「神は必要か?」(――神と言っても自然法やら天賦説の人権の背後に居る奴の事だが)などと言い切る事には強烈な反撥を覚える。功利主義者的には、「啓蒙専制」などですら検討に値するのかもしれないな。


●全体(モラル)なき時代


オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』は大衆社会論の嚆矢とか、自然的貴族の議論ばかりが注目されがちである。甚だしきは彼の「自然的貴族」と「大衆人」の対比から、大衆人への一方的断罪という字面をなぞっただけの解釈すら為される。「運命というものはすべて、その根底においてはドラスティックであり悲劇的である。時代の危機を自分の手でしっかりと把み、その脈打つのを感じたことのない人は、運命の核心に到達したことのない人である。彼はその病み衰えた頬をなでたとしかいえない」という一文はある種の皮肉のようにすら感じられる。確かにオルテガの筆鋒は大衆に対して厳しいのであるが、彼にとって「大衆の反逆は、生命力と可能性の信じがたいほどの増加を意味する」ものでもあった。問題は、この大衆人が過去のモラルに対して敬意を払わず、しかもそれを超克する新たなモラルを形成する能力を有していなかった事にある。


ここでいうモラルとは、倫理性という意味のほかに全体性という意味で用いている。つまり、倫理においては個々の規範を包括するものである(――道徳は個人の良心と集団の倫理によってなる)。全体性は、生活においては文化であり、政治においては国体(国制、憲法)として現われる。こうした謂いが知的においてはホーリズム的、政治的においては全体主義的である事を否定はしない。「自由」の“原理化”にはなお留保すべきであると考えているからである。殊に「選択の自由」において、それは成功者の自由でしかありえない。成功を事後的に正当化するに過ぎないそれは、端から失敗者を疎外している(――だが、同時に「平等」なるものも結局はこの「自由」に対する消極的な修正主義に過ぎない)。「希望は戦争」という言葉に表れているのは、単純な意味での「戦争」ではないのだ。勿論、発言した当人はそうした背景を意識して述べたものではないだろうが、ロックなどの言説における所謂「戦争状態」であると理解した方がよい。「戦争状態」とはただ単に干戈を交えるという意味ではなくて、社会において相互保全や信頼が成り立たない事である。ここではもはや権力は規範性を失い、ただ力として振舞われる。ところで、権力と暴力、さらには影響力というものは、厳密に区別されてしかるべきである。時にマスコミを以って「第四の権力」と僭称するものがあるが、二通りの意味において否定される。第一に、法に拠らない「力」は権力ではなくて、影響力と呼ぶべきである。第二に、「権力」を称するのならば合法的でなければならない。仮初にもこの僭称が事実であるならば、法に拠らず民主的統制すら受けていない不正な権力(――と言うより不正なものである以上、権力たりえないのだが)であり、その様なものは法の支配にも、民主主義にも反する。


「問題は今やヨーロッパにモラルが存在しないということである。それは、大衆人が新しく登場したモラルを尊重し、旧来のモラルを軽視しているというのではなく、大衆人の生の中心的な願望がいかなるモラルにも束縛されずに生きることにあるということなのである。諸君は若者たちが「新しいモラル」を口にする時はそのいかなる言葉も絶対に信じてはならない。わたしは、今日このヨーロッパ大陸のいずこにも、一つのモラルの外観を示している新しいエトスをもった集団は存在しないと断言する。人々が「新しい」モラルを口にする時、それは一つの不道徳行為を犯しているのに他ならないのであり、彼らは、密輸入のための最も容易な方法を探しているのである」


オルテガは、反動の仮面を被った大衆人(ファシズム)と、革命の仮面を被った大衆人(サンディカリズム)との対立に隠れていたものを、その破局以前に喝破していた。モラル(全体性)が存在しないという事は、要するに我々が、我々の思想や営為が断片化しているという事である。思うに、それは今日の現状とて変わりは無い。果たして今の日本に、或は諸外国に、全体性を持ったモラルなど存在するだろうか。我々は実に気楽な調子で「現代」とやらを語り、「世代」とやらを論じる。然るに、果たして我々に「現代」と言うほどの同時性があろうか。「世代」と言うほどに何かを共有しているだろうか。「現代美術」を称している児戯に、枕詞以外に一体如何なる共通性があろうか。現状のグローバリズムなる概念への理解もまた奇妙である。ソ連の崩壊は確かにマルクス主義の発展的な歴史観を打ち砕いたかもしれない。しかし、それは同時に自由主義(ホイッグ)的な進歩史観の夢想すらも破壊するものではなかったか。我々は「歴史の終わり」(F・フクヤマ)に到達したのではない。歴史の目標(目的)が見失われた時、それは「『歴史の終わり』そのものの終わり」(J・ボードリヤール)を意味したのであって、我々が真に失ったのは「歴史性」という全体像なのである。(――歴史的意義のあるものとして)「湾岸戦争はなかった」というボードリヤールの言には、ある種の茶化しを超えて真理が存すると言えよう。


オルテガは「国家は一つの事物ではなく、運動である」と言った。「国家はすべての運動がそうであるように、起点と目標をもっている」。ところが、目標を見失えば、起点への信頼も当然薄れてしまう。ただ、現在に至る無数の分岐点のみが、ただ時間のみにおいて付加逆な流れに拡がって行く。国家の統一性は所与の統一を絶えず超克するという目標に掛かっている。仮初にも「より以上のものへと向かうこの衝動が衰退すれば、国家は自動的に死滅してしまうのであり、物理的に基礎が固められていたかに見える既存の統一性――人種、言語、自然の境界による統一性――ももはやなんの役にも立たない。つまり国家は分裂し、分散し、アトム化してしまうのである」。今日における道州制などの分権論などがそれの良い例であろう。進歩なき“現在”において歴史は常に退歩の可能性を秘めている。しかも、それが退歩であるかさえ、その時点では明らかではない。


●全体(モラル)なき知識


このような時代において、ある種の情熱が溢れた理念(範型)の時代から、歴史学が冷めた実証主義へと還って行く事は必然であろう。一方、社会学は最早学問として立ち直れないのではないだろうか。モデル(規範)なき時代にモデル(類型)を求める事は、端的に言ってアナクロニズムである。現に東大の情報学環の人々は社会学者を自称してはいるが、やっている事は言ったら、その多くは哲学の真似事に過ぎない。京大の大澤真幸氏もその著作にはなお見るべき点があるとはいえ、自我論やら国家論やら社会学とは随分縁遠いものである。ポスト・コロニアリズムに至っては所詮転倒した歴史哲学に過ぎまい。


思うに、彼らやポスト・モダンの思想家というのは、我らの時代のシニク(犬儒派)だったのではあるまいか。シニクは「何も創造しなかったし、何も成しはしなかった。彼らの役割は破壊であった。というよりも破壊の試みであったというべきであろう。なぜならば、その目的さえも達成しえなかったからである。文明の寄食者である犬儒主義者は、文明はけっしてなくならないだろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きているのだ」った。彼らは隠された権力を暴き出し、国家や共同体は想像の産物に過ぎず、伝統は捏造されたものであり、自我や個人さえも懐疑の眼差しを向ける。しかし、現実に我らは我らとして(――或る程度自己同一性を維持した存在として)生きているし、権力は厳に存在し、国家とて健在である。某国などに至っては、自国のビルが二棟ほど倒された腹いせに、二つばかし国を滅ぼすほどに活発だ。


我々は概念が語る事物そのものについて何も知りえない。我々の知識の本質は事物ではなく連関(関係と運動)であり、法則(神の見えざる意志)ではなく予期(仮定と確率)なのである。もちろん、事物の実在性が斥けられたからと言って、その存在が否定されたとは言えない。外在するものはただそこに存在している。我々は我々自身の中に内在しているのではない。我々は我々でないものに投げ掛けられる事によって現されるのである。今日、エゴイズムが「表現の自由」なり、何なり「自由主義」の仮面を被って闊歩しているのであるが、そもそも自我の覚醒とは、観る自分であると同時に、見られる自分への自覚であったはずだ。主体的な存在としては見る自分であり、客体的な存在としては見られる自分なのであり、両者はまったく不可分の関係である。


元来、「知識」とは分別の事であった。諸君らの部屋の中にカバが居ないという命題は、ウィトゲンシュタインが言うように成り立たないかもしれない(――形而上学は“在る”事のみを対象としてきた)。しかし、我らの眼前にある馬と鹿自体の存在が担保されようがされまいが、感覚器官の伝えるところに従って、我々はそれが別の生き物である事を容易に認識出来るであろう。何かを区別する力は個々の概念を認識する力に先立つ。我々は実在性そのものに対しては証明する術を持っていないのであるから、それを懐疑する事は信ずる事と何ら変わらぬ、先行する信念のようなものに過ぎない。例えば、「我輩」という存在は単に想定し、予期されて現われる「姿」に過ぎない。その「姿」は「事物」そのものではありえないが、慣習的に束ねられ、認識しうる「運動体」ではある。しかし、我輩という存在の中心は常に空虚でしかありえない。我輩が見るのはその空虚な中心を廻る周縁部に過ぎない。だが、それがどうしたのというのだろう。そうした問はただ“問い掛ける”ものであって、“問い掛けられた”ものではありえない。何故なら、そうした問に答えは存在しないのだから。我々がまず検証せねばならないのは、命題に対する答えではなく、命題そのものの妥当性なのである。