「反知性主義」について(補遺)


先日の「反知性主義について」の短い雑感に対する補遺を記す。本館の続き物とも関連があるので、本館でもっと掘り下げた議論をしてみてもよいが、前日の覚書がさっと見てさっと書いた粗い議論なので、さしあたってもう少し突っ込んだところまで掘り下げ、研ぎ澄ましておきたい。覚書という性質上、文章の構成がところどころ変に感じられるかもしれない。あしからずご容赦いただきたい。なお、前半に具体的な話を、後半に抽象的な話題を記しておいた。


ところで、以前、似たような「知識人」論を書いた時にも間違えられたのだが、稲葉振一郎氏のブログはこちら『インタラクティヴ読書ノート別館の別館』である。同じブログデザインを用いているので間違えられたのであろう。一応、はてなの公式デザインなので、使っておられる方はそれなりにいらっしゃるはずなのだが。デザインをいじくる能がないので、読みやすく、かつシンプルなものを選んでいるのだが、共有デザインも含めてそういうものは少ない。字が小さいのはまだしも、白地は光って、長文を読むと目が痛くなる。どなたか、長文エントリを読んでも疲れないようなデザインを作ってくださらないだろうか。


閑話休題(あだしごとはさておきつ)。


●「実学」について


「どんな『主義』でもそうだろうが、知的伝統の中でのそれと、日々の実践とでも呼べるものとはかなり違うのでは?『反知性主義』が『反知識』でなかったとしても、現代アメリカでの実践には明らかにその傾向を感じる」。


このようなブックマーク・コメントを頂いたのだが、我輩は前者を思想(文学)、後者を生活(常識)であると言うべきであると考える。個々の意匠を束ねるそうした諸様式を内包するものこそ、「文化」(全体性)なのである。功利的自由主義者(――功利主義とリベラルの公理は矛盾しない)、或は東浩紀氏の「動物化」にしても、文面は違っていても、本質的には「全体‐部分」に対する態度の違いに過ぎない。思うに日本において、「思想(学問)‐生活(実業)」を繋ぎ合わせる中間的な存在として、「実学」というものがあったのではないだろうか。そうした実学を担ったミドルクラスを、日本ファシズムの原動力と看做し、「亜インテリ」として断罪したのが丸山真男であり、そうではないと弁護したのが松田道雄である(――詳しくは「日本の知識人」という論文を参照されたい)。ところで、我輩は『民主と愛国』において小熊英二氏が、清水幾太郎という地雷を避け、松田道雄をほとんど無視したことに憤りを覚える。一般に右派的と目される浅羽通明氏の方が、不器用ではあっても、思想家として遥かに誠実であろう。


●歴史における思想


このブログにおいても、しばしば指摘していることだが、書かれたもののみが思想史を織り成すわけではない。たとえば、政治家の回顧録をそのまま事実として受け取ることが、歴史認識として危ういように、作家や学者の書いたものもまたそのまま受動的に受け止めるのは、たとえ書かれたことを主たる対象とする思想史(――文学史を含む)であっても、偏った認識を生んでしまう。「行間を読む」とは、こうした書かれなかったことを、作家に考えてもらうのではなく自ら考え、複数の史料を比較することでそれを炙り出すことだ。


前々回のエントリにおいて、保守主義の歴史を叙述する上で、E・バークを頭にもってくるのはあまりに詰まらない、芸のない行為であると腐した。ただ、これにはもう一つ含みがあって、それはバークから一直線に現代に繋がらないということだ。バークにしても、ド・トクヴィルにしても関心が薄れた時代というのがあるからだ。ド・トクヴィルなどは本国よりもアメリカで熱心で読まれて来た。さらに、それが今日、歴史としてではなく、政治思想として受け入れられているということは銘記すべきである。たとえば、バークの『フランス革命省察』よりは、ド・トクヴィルの『旧体制と大革命』の方が、歴史書としては洗練されているし(――ド・トクヴィルはバークを批判的に受容している)、ド・トックヴィルの『アメリカのデモクラシー』にしても、歴史書としては少し後のジェイムズ・ブライスの『アメリカン・コモンウェルス』の方が正確である。ブライスから今日のウォーリンに至るまで指摘しているように、ド・トックヴィル自治や州単位の政治を賛美しすぎており、中央政府が果たしてきた役割を過小評価している。


●信仰についての断章


「ニッポンの反知性主義」では、所謂「スピリチュアル」が批判されているのだが、信仰の取り扱いというのは難しい。あの手の精神や霊的なものを物質的に理解する、裏返された物質主義者の手合いは我輩も嫌いなのだが、根本的な批判の可能性に対しての判断を保留している。この種の科学や認識論に関しては手前味噌であるが、本館のこの記事を参照していただきたい。


「カルト」という言葉は、元来「セクト」に近いニュアンスを持っていた。アメリカ建国神話を彩るメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)からして、国教会に反対するセパラティスツ(分離派)であったわけで、元々アメリカには「カルト」的な素地が存すると言えよう。


中世史家カルロ・ギンズブルグの著作を読んでいると、我々が「中世」と呼ぶルネサンス以前の社会が、カトリックの教化がさほど浸透していなかったことが分かる。『ベナンダンティ』では古代から続く豊穣信仰が時代を経るにつれ、異端信仰としての性格を有するようになったことを描き出し、『チーズとうじ虫』では、教会の説教ではなく、“自ら考え出した”世界観を披瀝したことで、異端審問にかけられた粉挽屋のおやじが描かれている。こうした中世世界をギンズブルグの著作などによって垣間見ると、「宗教」とは何であったのかと思わざるをえない。ローマを乗っ取ったとはいえ、その後の蛮族で混乱した古代から中世の過渡期においては、宗教家すらまともなラテン語すら理解しておらず、民衆にいたってはそれぞれの俗語を話していた。キリスト教の「経典宗教」という側面は、実のところかなり過大評価されたものに過ぎないのではないか。そして、ルネサンス以降、「経典」というものの重要性が高まれば高まるにつれ、むしろ無数の分派を生み出し、そして正統と異端という考え方が逆に強まっているのではないかとすら思われる。


欧州の近代人は我々が想像している以上に、信仰的な人々であった。全てを懐疑したデカルトのそばには常に神が居たし(――デカルトは実のところトミズムに近いのではないだろうか)、ニュートンにとって万有引力の法則は神の意思であり、摂理であった。それが革命の時代に教会と国家が修復し難いまでに分裂し、今や極端なまでに世俗化している。19世紀の革命が破壊したのは王権だけではなく、教会に対しても向けられた。この信仰と理性の臨界点とも言える、「反中世」の革命としての近代化を経験しなかったことが、かえってアメリカに古い中世的なものを温存させることになったのではないか。イギリス以来の反カトリック(普遍宗教)の雰囲気を温存させていたアメリカにおいて、ローマ教皇が西ヨーロッパの世俗主義を批判しているのは、ブッシュ政権の「古いヨーロッパ」発言と合わせて考えれば、中々興味深い出来事である。


●原理についての断章


歴史的文脈から離れてある概念について考える場合、思考が漠然と広がっていくことに呆然とする。どこから話せばいいのか、どこまで指せばいいのか、問題それ自体の抽象さに頭を悩ませる。「人間が描けていない」。批評家たちは小説を片手によくこんなことを言う。それでは、そもそも「人間」とは何であるのか。我々は「人間」とやらを知っているのだろうか。大いなる疑問にして、素朴単純極まる疑念である。同様のことが「知」をめぐる議論にも言えるだろう。そもそも「知」とは、「知識」とは、「教養」とは何であるのか。


元来、現実性「Reality」とは語源に遡れば、ラテン語の「Realitas」即ち、「事象を斯く斯くのものとして規定し得る」という意味である。規定されうるものとして想定されたもの、それを我々はフィクションだとか、擬制だとか、或はヴァーチャルだとか言う。それらは名詞ではなく、「現実」の観念性を形容した言葉に過ぎない。つまり、我々が知っている(認識している)“現実”というのは、当然のことながら“現実そのもの”ではないのである。同様のことが「私」自身の存在にも言える。「私」という存在そのものを問うことは、同様に無意味である。我々が知っているのは「私」という「観念」に過ぎないのである。


知覚は何かを知ることであり、知識とは分別のことである。何かを区別する力は、何かを認識する力とは別に存在する。それらは「もの」ではなく、「こと」である。記憶は事象なのであって、「タブラ・ラサ」白紙の状態というのは間違った見解である。つまり、我々は経験と記憶は厳格に区別できないし、記憶は我々に意識を喚起させるが、その契機は定かではない。その理性的なものからの飛躍を我輩は想像力と呼びたい。


「原理」(――それは我々の理性に先行する)は前に投げられるものではなく、立ち返って考察する際に我々が意識する観念にほかならない。D・ヒュームはいみじくも言っている。「思想家にはなりたまえ。だがそのあらゆる思想の中にあって、変わらず人間であり続けることを忘れるな」と。人間の原理(――とかく濫用されがちな「人間性」という概念で捉えてもいいだろう)とは、つまり、そういうことだ。思索という運動が起点と目標を欲するように、問答においては立ち返る場所が必要なのである。正しい問い掛けは問いそのものにゆるやかに立ち返っていく。そして、「はじめ懐疑主義へ導くように見えたのと同じ原理が、ある点まで追求されると、人々を常識へと立ち返らせる」(G・バークリ)のである。


我々がしばしば陥りやすい誤解に、相対主義を客観的なものと看做すことがある。しかしながら、足場を定めない相対主義では、「観る自己」と「観られる自己」という主体と客体の分離が上手くいかない。相対主義はどこにも行き着かない環である。それはソクラテスの時代から変わらない。ソクラテス古代ギリシアの生んだ最大にして最強の“ソフィスト”であった。プラトンの『ゴルギアス』を読めば分かる。ソクラテスは紛うことなきソフィストであった、徹底したソフィストであった。だからこそ、今日の我々と言わず、彼を死においやったアテナイ人たちも、プラトンでさえも、ソクラテスが何者であったかを知らない。「無知の知」とはまさにそういうことだったのだから。