走り書き


今日中にあげられそうにないので、とりあえず書いたところまであげておくことにした。後日消す予定なのでコメント等は控えて欲しいが、消されてもよいならご随意に。三分割くらいにしようかと考えているが、どうなるかは分からない。とりあえずあげておけば、本館みたいに二週間もほったらかしみたいな事態にはなるまい。契約説につい色々自分なりにまとめていたのだが、思っていたより難物で、仕方が無いから色々関係なさそうなことまで、あとでネタになるだろうと覚書として残している。デモクラシーについて色々調べたり考えたりしていると、たまたまシャンタル・ムフのインタビューをネット上で見かけて、それから以前読んだブログを思い出して読み返すと、アゴニスティック・デモクラシーに対して間違った理解をしているので、これにもツッコミを入れておきたいなどと取り留めなく。そう言えば、カール・シュミットの『パルチザンの理論』(ちくま学芸文庫)が復刊されていたが、思ったより評判にはなっていないようだ。これと絡めて一本書けたら面白そうだなあ。ただ、直観的なものとして、あるいは現時点での読みとして、ムフのそれは熟議的デモクラシーのバリエーションの違いに過ぎないんじゃないか、或いは友‐敵論の批判的継承にはなっているけれども、克服にはなっていないような気がする。ハーバーマス批判にもなっているけど、基本ベースは「戦う民主主義」と憲法愛国主義だよなあとか、面白い割に笊な気がしてならない。ホッブズとシュミットの亡霊未だ祓えず。


我輩は国家理性というものを復権させたいと考えているし、慎重さは要するものの、ハイエクが「設計主義的〜」と批判するような制度設計についても、是とする考え方をしている。「自生的秩序」という理論についても、文化や経済については当てはまる面が多いかもしれないが、固定化しないと制度として機能しないのではないかという疑義がある。さらに慣習は固定化されてきた諸制度の積み重ねであって、我々にはそれが自生的であったかどうか分からない。問題は我々にそれが“先行”しているということである。自然法にしても、「法は発見されるもの」として看做すコモン・ローにしても、「発見されたもの」は議会の制定法なり、判例法なりの“実定法”としてしか明示されえない以上、そのようなものの実在性というのは大変疑わしい。この種の観念は契約説と同じく主体たる神を要請する羽目になるのではないか。


アメリカが憲法によって作られ、営まれている国だということに異論はない。合衆国憲法は連合規約から飛躍した存在としてある。しかし、問題なのは、立法にせよ、司法にせよ、行政にせよ、そこで主体となっているのは憲法上には存在しない、「政党」という非制度的主体なのであって、そうしたものに関しては「自生的な秩序」として看做す方がむしろ納得のいくものなのではないか。我輩が「天皇制」という言葉をあまり用いないのは、そこに非制度的要素を認めるからである(が、我輩自身は機関説的である)。つまり、制度として見る時には、それは単なる君主制の一つでしかない。そして、明治憲法は非制度的主体として機能しえた天皇を“制度化”することによって、天皇親政を否定したのである。


アメリカについて


アメリカの建国者たちは実業家であり、政治家であり、教養人でもあった。E・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』(1776〜88)を待たずとも、古典時代について相当の知識を有していたと考えてよいだろう。当初はイギリス臣民の自由の回復を求めて戦った彼らにとって、一から新しく共和政体を形成することが如何に困難な事業であったか想像に難くない。ヴェネチアにせよ、オランダにせよ、同時代の共和政体と呼ばれていた国々は彼らにとって模範足り得なかった。だからこそ、彼らに古典時代へ眼を向けさせることになる。しかし、そこにあったのもまた失敗例であった。共和制ローマは独裁に墜ち、民主制アテナイも扇動の内に堕落した。建国者の内、特にジョン・アダムズなどは、明確に今日我々がデモクラシーとよぶものに対して警戒している。


しかしながら、王制も、貴族制も、建国の父たちには論外であった。そこで彼らが発明したのが連邦制であり、抑制均衡の理論であった。そして、これらを強調するのが自由主義者であり、これに対する修正的な見解として、マキアヴェッリ、ハリントンら16,7世紀イギリス共和主義者、モンテスキューの影響を見る共和主義的な見方が存する。後者の見方にのっとれば、アリストテレス以来の混合政体論という実に前近代的な要素を見出すことができよう。すなわち大統領(独)―元老院(少)―庶民院(多)であるが、これもまた権力分立、抑制均衡の内に理解することもできるかもしれない。


ただ、初期のアメリカにおいて混合政体論(マキアヴェッリも実は混合政体論である)の影響など、古典的政治思想の要素が多いのもまた事実である。ただし、古典的な共和主義に政党(党派)は存在しないか、悪しきものでしかなかった。だからこそ、この新旧のあいまった時代において、決闘などというものが流行っている。ウィキペディアの「連邦党」の項目で、初代大統領・ジョージ・ワシントンの「我々には政党はいらない。なぜなら、我々は全て共和主義者(フェデラリスト)だからだ」という発言を引いて、フェデラリスト一党優位体制を説明しているのであるが、これは間違いである。一個の独立した人格として行動するという共和主義精神を体現した理想主義者のワシントンには、党派というものが現に形成され、それが良かれ悪しかれ実際に機能しているという現実が見えなかったのである。彼にフェデラリストとの一員として、あるいは党主としての自覚など存在しなかった。それでも上手くいったのは、彼の人格的な面、何より独立戦争の英雄としての側面が合わさった幸運に過ぎない。


しかしながら、その幸運は長続きしなかった。次代のジョン・アダムズの時代に党派抗争は激化した。なお、悪いことに両党派が対外政策の違いに結びつき、外国からの干渉を受けかねない情勢となっていた。ワシントンの「訣別の辞」に表れている孤立主義というのは、単なる理想主義ではなく、人口数百万に過ぎない“農業国”アメリカが、ヨーロッパ情勢に巻き込まれることを憂慮したリアリスティックな判断でもあった。ワシントンを継いだ第二代大統領ジョン・アダムズは、ジェファソンの影に隠れるか、あるいは悪名高い「外人法」及び「治安法」のイメージもあいまってかあまり評判がよくない。我輩自身『研究生活の覚書』の諸エントリを読むまで、A・ハミルトンを間接的に死に追いやった狭量な人というイメージが強かったのだが、どうやら中々の辣腕政治家だったらしい。「ジェファソンはアダムズに勝つべきだったのか」を読むと、ワシントンが「ジェイ条約」によって対英和平実現し、切り返す刀でアダムズが対仏和平を実現させ、体外的緊張を解決した(≒孤立主義を可能にした)ことがわかる。このせいで、親英派フェデラリスツは瓦解し、ハミルトンの死の遠因となり、ひいてはアダムズ自身の再選をも阻むことになってしまったのだが、この過程を見るに、アダムズはワシントンの忠実な後継者であったというのが、妥当な評価であるように思われる。彼もまた政党政治以前の政治家だったのである。


●民主制と共和制


政治制度としての民主制と共和制の違いはどこにあるのだろうか。カントによれば立法権と行政権の区別にある。日本の穂積八束は美濃部の機関説によって斥けられた保守反動のイデオローグ的な理解をされているのだが、実際には正しい面もあるのではないか。


●民会→代議制→政党性


少々進化論的発想かもしれないが、民会への参加(Present)から議会への代議(Represent)へ、代議から政党政治へ。マニフェストに対する嫌悪感。議会外の政策決定の是非。


●デモクラシーとは何であろうか


デモクラシーとはそもそも何であろうか。オルテガのようにそれは選挙制のことであり、「選挙さえ上手くいけば全てが上手くいく」、そういう政治制度的なものとしてデモクラシーを理解する見方がある。一方で、ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で示した、社会状態としてのデモクラシーという見方も、あながち見当違いではないように思われる。たとえば、デモクラシーを支える諸原理を踏み躙ったナチスヒトラー政権は、皮肉なことにワイマール共和国末期において唯一議会に基礎を置いた政権であった(――それ以前に四代にわたって超然内閣が成立した)。公正な選挙が行われるということが、途上国ではなお難しい現状にあって、オルテガの言は確かに説得力があるのだが、やはりそれだけではないのだろう。今日の逆説的なナチ神話(――つまり、その思想性に対して過剰な意味を読みとってしまうこと)にあって、直のこと強調すべきであるように思われるのは、ナチスが最盛期に議会の第一党を確かに占めたのではあるが、それでも過半数には及ばなかったという事実である。思うに、熱狂と同程度に無関心もまた、政治やデモクラシーを腐敗させるのではないだろうか。統治者と被治者の双方に無責任を教え込むという点では、ほとんど大差がないからだ。権力というものは“真空”に対して走性を持っている。権力そのものが問題なのではない。権力が統御しえなくなることが問題なのである。同様に腐敗もそのものではなく、それを抑制しきれなくなったときに真の問題となって現れる。