日本近代史についての雑多な覚書


日本の「反知性主義」というものがあるとするならば、それはやはり明治時代から考えなければならないと思うが、福田恒存の評論あたりで大体片が付くような気がする。誰しもが俗物なのだと書いた「俗物論」(全集の「覚書 一」で川端康成もやはり芸術家という名の俗物に過ぎなかったなどとも書いている)、日本の文学に個人主義は定着せず、気分的信仰のあるところで近代文学(救いを求めるのが宗教であり、文学はそうではない)なんて成立しないよと書いた「個人主義からの逃避」、日本人の考え方の基調は論理とか倫理ではなくて、美的潔癖症なのだと書いた「日本および日本人」、「日本人の思想的態度」。近代論の「近代の宿命」とそれをベースに西尾幹二氏が代筆したらしい「反近代の思想」なんかも知識人論として面白い。これに『教養主義の没落』などの竹内洋先生、ベストセラーを面白い視点で読み解いた斎藤美奈子先生の『趣味は読書。』を合わせたら、面白い知識史の一面が見えるかもしれない。


「われわれは精神の力を過大に評価してはならない。逆説的に聞こえるかもしれないが、精神の自律性を信ずるがゆえにこそ、文学や思想の価値を過大に評価してはならない。少なくとも日本の近代史において文学や思想の代表的知識階級が、政治家や資本家、軍の指導者たちよりも近代的であったという証拠はどこにもない。むしろ反対に、西欧先進国の圧力をはねのけ、日本を独立国家として導いて行く困難な位置に立たされていた権力者たちの方が、知識階級よりもはるかにごまかしのきかない責任を負わされていたのであり、急速な近代化への要請を前にして、彼らは過失をゆるされない行為の一回性を引き受け、過失から生じる被害が、だれよりも先に自己そのものの上に振りかかってくる危険にさらされていた。
――中略――
権力者たちは急速な近代化を推進するために非常手段を相次いで断行するしかなく、その実行の凄まじさを前にして適応異常を起し、繊弱な神経ではついて行けなくなった一群の知的集団が発生する。それが日本の知識階級である。維新の改革期には支配階級と知識階級は未分離状態であったが、明治二十年前後に。後者の現実への不適応が次第に露呈して、二つに分離し、日露戦役を経て大正期に、日本の知識階級として独特な性格形成を完了する。それは、一口で言えば欧化主義の波に乗れなかった脱落者の群れであり、脱落や不適応をさらに徹底した永井荷風のような例外を除けば、大体は不適応を合理化し、正当化する口実をみつけ、孤立した集団陶酔の中で自己を絶対化する性格が顕著である」
( 「反近代の思想」 筑摩書房 )


結局のところ、日本の知識人などというものは、時代を主導したことなど一度もなく、目立って見えるのはただ混乱していたが故の逆説なのではないか。若い頃の西尾氏はかなり尖がったものを書いていたようだが、最近の氏は口舌が激しさを増すほどに挫折感を露呈しているように見える。氏は元来反時代的に生きられる人ではなかったのだと思う。そういう意味で、氏のことを挫折した“アカデミスト”と評したわけである。現実や時代に斥けられ続けた反時代的ポレミカー福田に、挫折感をあまり感じないこととは対照的である(福田の晩年の随筆「言論の空しさ」に、我輩はむしろ福田の強さを見る)。


ただ、福田にしても言えることだが、知識人と権力者の対立に焦点をあてすぎて、両者の内部をやや単純化し過ぎているきらいがある。さらに単純化した歴史観である、皆同じ坂の上の雲を目指したというのが、明治の理解として人口に広く膾炙しているのであるが、木戸孝允は「万機公論にて決すべし」の公論政治を目指し、大久保利通は殖産興業、山県有朋は強い軍隊と、実際にはばらばらだった訳である。それらが結果として全て上手くいったのは結果論に過ぎない。


奇妙なことに日中戦争から対英米戦争を語る時ほどに、我々は悲壮感たっぷりに日清、日露の戦役を語らないのであるが、日清戦争前、極東で最強の海軍を持っていたのは、イギリスでもなく、ましてやロシアなどではなく、北洋艦隊有する清だったのである。GDPの推定値にしても日本は全く及ばなかったのであって、即時開戦を主張した民党に比べて藩閥政府の方が、はるかに慎重な政策決定を行っていた。さらに初期議会の捩れ状態と混乱が、事態をややこしくしており、戦争中に選挙などをやっていたために、清の外交官などはこれなら勝てると思ったようである。甲午事変によって派兵した第二次伊藤内閣は、当初日清共同で朝鮮の内政改革をやろうと思っていたようだが、主戦論が過熱していた議会では内閣弾劾上奏案が提出され、衆院解散に追い込まれており、山県はこれを機に憲法を停止に追い込もうする。憲法停止論が出るに及んで「暗中飛躍」、伊藤は対清開戦を決断する。これが日清戦争に関する決定的著作と評価される高橋秀直日清戦争への道』(東京創元社)で、「護憲のための戦争」と称される所以である。


ところで、どうでもいいことだが、ウィキペディアの「日清戦争」の項目の指揮官というのは何なのだろう。「山県有朋 対 李鴻章」ってプロレスじゃあるまいし。大体、大山巌、川上操六の薩派陸軍の巨頭二人が健在なのに、山県が単独で戦争指導など出来るわけがなかろう。変なテンプレのせいもあろうが、執筆子が何を考えてあんな頓珍漢な記述をしたのか素人ながら理解に苦しむ。山県がいわゆる山県系官僚閥(長州出身者以外も多く居るのでそう呼ばれる)を構築できたのは、日清戦争後、薩派陸軍のリーダーだった川上操六が若くして亡くなったことが大きい。薩長閥とは言うものの、明治初期において圧倒的に強かったのは薩閥なのである。幕軍との戦争や内部抗争で疲弊していた長州と違って、力を温存していた雄藩中の雄藩薩摩が、幕末においても、明治においても、維新の中核を担ったことは当然の結果であろう。


デモクラシーについての思索覚書のための前書として近代史について書いたのだが、思ったより紙幅が膨らんだので単体であげることにした。率直に言ってアメリカ史に関しては、我輩のエントリなんぞ読み棄てて、参照として掲示したブログの全エントリを読んで下されば、ほとんど事足りるのではないかと思う。学識、文章ともに我輩などより遥かに深い。はてなのブックマークを見ているとあまり読まれていないようで、実にもったいないのでここまで読まれた方は是非読まれたし。


ただ、言及して頂いたブログなどを読んで、あらためて指摘しておきたいのは、ド・トクヴィルを引いて我輩が言うデモクラシーというのは、政治構想や制度ではなくて、ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で示した「社会状態」としてのデモクラシーの方である。だから、我輩はギリシア、ローマの古典時代のデモクラシー的諸要素をほとんど評価しないし、そもそもアメリカの建国者たちからして、古代ギリシアやローマというのは反面教師として存在していた。F・ハイエクの「自生的秩序論」を政治学としてほとんど評価しないのも、連邦憲法とそれに創出された政府というのは明らか人為的産物だったという事実を重く見るからである(それは日本の明治憲法にしても同じである)。つまり、ここでいうデモクラシーとは社会における平等化についてなのだが、オルテガの『大衆の反逆』において示された平準化に繋がる話なのではないかと思う。そういう意味で、オルテガの『大衆の反逆』を単なる大衆断罪の書として読んではならないのだと考えている。アマルティア・セン博士の本を読むと、社会的基盤としての「平等」は自由な近代社会に不可欠な要素なのではないか、自由を至上と考える人々は機会の均等をあたかも自然状態であるかのように扱ってしまっているのではないか、そういう疑念が膨らむ。これらに関してはもう少し考えを深めてから記したい。

「反知性主義」について(補遺)


先日の「反知性主義について」の短い雑感に対する補遺を記す。本館の続き物とも関連があるので、本館でもっと掘り下げた議論をしてみてもよいが、前日の覚書がさっと見てさっと書いた粗い議論なので、さしあたってもう少し突っ込んだところまで掘り下げ、研ぎ澄ましておきたい。覚書という性質上、文章の構成がところどころ変に感じられるかもしれない。あしからずご容赦いただきたい。なお、前半に具体的な話を、後半に抽象的な話題を記しておいた。


ところで、以前、似たような「知識人」論を書いた時にも間違えられたのだが、稲葉振一郎氏のブログはこちら『インタラクティヴ読書ノート別館の別館』である。同じブログデザインを用いているので間違えられたのであろう。一応、はてなの公式デザインなので、使っておられる方はそれなりにいらっしゃるはずなのだが。デザインをいじくる能がないので、読みやすく、かつシンプルなものを選んでいるのだが、共有デザインも含めてそういうものは少ない。字が小さいのはまだしも、白地は光って、長文を読むと目が痛くなる。どなたか、長文エントリを読んでも疲れないようなデザインを作ってくださらないだろうか。


閑話休題(あだしごとはさておきつ)。


●「実学」について


「どんな『主義』でもそうだろうが、知的伝統の中でのそれと、日々の実践とでも呼べるものとはかなり違うのでは?『反知性主義』が『反知識』でなかったとしても、現代アメリカでの実践には明らかにその傾向を感じる」。


このようなブックマーク・コメントを頂いたのだが、我輩は前者を思想(文学)、後者を生活(常識)であると言うべきであると考える。個々の意匠を束ねるそうした諸様式を内包するものこそ、「文化」(全体性)なのである。功利的自由主義者(――功利主義とリベラルの公理は矛盾しない)、或は東浩紀氏の「動物化」にしても、文面は違っていても、本質的には「全体‐部分」に対する態度の違いに過ぎない。思うに日本において、「思想(学問)‐生活(実業)」を繋ぎ合わせる中間的な存在として、「実学」というものがあったのではないだろうか。そうした実学を担ったミドルクラスを、日本ファシズムの原動力と看做し、「亜インテリ」として断罪したのが丸山真男であり、そうではないと弁護したのが松田道雄である(――詳しくは「日本の知識人」という論文を参照されたい)。ところで、我輩は『民主と愛国』において小熊英二氏が、清水幾太郎という地雷を避け、松田道雄をほとんど無視したことに憤りを覚える。一般に右派的と目される浅羽通明氏の方が、不器用ではあっても、思想家として遥かに誠実であろう。


●歴史における思想


このブログにおいても、しばしば指摘していることだが、書かれたもののみが思想史を織り成すわけではない。たとえば、政治家の回顧録をそのまま事実として受け取ることが、歴史認識として危ういように、作家や学者の書いたものもまたそのまま受動的に受け止めるのは、たとえ書かれたことを主たる対象とする思想史(――文学史を含む)であっても、偏った認識を生んでしまう。「行間を読む」とは、こうした書かれなかったことを、作家に考えてもらうのではなく自ら考え、複数の史料を比較することでそれを炙り出すことだ。


前々回のエントリにおいて、保守主義の歴史を叙述する上で、E・バークを頭にもってくるのはあまりに詰まらない、芸のない行為であると腐した。ただ、これにはもう一つ含みがあって、それはバークから一直線に現代に繋がらないということだ。バークにしても、ド・トクヴィルにしても関心が薄れた時代というのがあるからだ。ド・トクヴィルなどは本国よりもアメリカで熱心で読まれて来た。さらに、それが今日、歴史としてではなく、政治思想として受け入れられているということは銘記すべきである。たとえば、バークの『フランス革命省察』よりは、ド・トクヴィルの『旧体制と大革命』の方が、歴史書としては洗練されているし(――ド・トクヴィルはバークを批判的に受容している)、ド・トックヴィルの『アメリカのデモクラシー』にしても、歴史書としては少し後のジェイムズ・ブライスの『アメリカン・コモンウェルス』の方が正確である。ブライスから今日のウォーリンに至るまで指摘しているように、ド・トックヴィル自治や州単位の政治を賛美しすぎており、中央政府が果たしてきた役割を過小評価している。


●信仰についての断章


「ニッポンの反知性主義」では、所謂「スピリチュアル」が批判されているのだが、信仰の取り扱いというのは難しい。あの手の精神や霊的なものを物質的に理解する、裏返された物質主義者の手合いは我輩も嫌いなのだが、根本的な批判の可能性に対しての判断を保留している。この種の科学や認識論に関しては手前味噌であるが、本館のこの記事を参照していただきたい。


「カルト」という言葉は、元来「セクト」に近いニュアンスを持っていた。アメリカ建国神話を彩るメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)からして、国教会に反対するセパラティスツ(分離派)であったわけで、元々アメリカには「カルト」的な素地が存すると言えよう。


中世史家カルロ・ギンズブルグの著作を読んでいると、我々が「中世」と呼ぶルネサンス以前の社会が、カトリックの教化がさほど浸透していなかったことが分かる。『ベナンダンティ』では古代から続く豊穣信仰が時代を経るにつれ、異端信仰としての性格を有するようになったことを描き出し、『チーズとうじ虫』では、教会の説教ではなく、“自ら考え出した”世界観を披瀝したことで、異端審問にかけられた粉挽屋のおやじが描かれている。こうした中世世界をギンズブルグの著作などによって垣間見ると、「宗教」とは何であったのかと思わざるをえない。ローマを乗っ取ったとはいえ、その後の蛮族で混乱した古代から中世の過渡期においては、宗教家すらまともなラテン語すら理解しておらず、民衆にいたってはそれぞれの俗語を話していた。キリスト教の「経典宗教」という側面は、実のところかなり過大評価されたものに過ぎないのではないか。そして、ルネサンス以降、「経典」というものの重要性が高まれば高まるにつれ、むしろ無数の分派を生み出し、そして正統と異端という考え方が逆に強まっているのではないかとすら思われる。


欧州の近代人は我々が想像している以上に、信仰的な人々であった。全てを懐疑したデカルトのそばには常に神が居たし(――デカルトは実のところトミズムに近いのではないだろうか)、ニュートンにとって万有引力の法則は神の意思であり、摂理であった。それが革命の時代に教会と国家が修復し難いまでに分裂し、今や極端なまでに世俗化している。19世紀の革命が破壊したのは王権だけではなく、教会に対しても向けられた。この信仰と理性の臨界点とも言える、「反中世」の革命としての近代化を経験しなかったことが、かえってアメリカに古い中世的なものを温存させることになったのではないか。イギリス以来の反カトリック(普遍宗教)の雰囲気を温存させていたアメリカにおいて、ローマ教皇が西ヨーロッパの世俗主義を批判しているのは、ブッシュ政権の「古いヨーロッパ」発言と合わせて考えれば、中々興味深い出来事である。


●原理についての断章


歴史的文脈から離れてある概念について考える場合、思考が漠然と広がっていくことに呆然とする。どこから話せばいいのか、どこまで指せばいいのか、問題それ自体の抽象さに頭を悩ませる。「人間が描けていない」。批評家たちは小説を片手によくこんなことを言う。それでは、そもそも「人間」とは何であるのか。我々は「人間」とやらを知っているのだろうか。大いなる疑問にして、素朴単純極まる疑念である。同様のことが「知」をめぐる議論にも言えるだろう。そもそも「知」とは、「知識」とは、「教養」とは何であるのか。


元来、現実性「Reality」とは語源に遡れば、ラテン語の「Realitas」即ち、「事象を斯く斯くのものとして規定し得る」という意味である。規定されうるものとして想定されたもの、それを我々はフィクションだとか、擬制だとか、或はヴァーチャルだとか言う。それらは名詞ではなく、「現実」の観念性を形容した言葉に過ぎない。つまり、我々が知っている(認識している)“現実”というのは、当然のことながら“現実そのもの”ではないのである。同様のことが「私」自身の存在にも言える。「私」という存在そのものを問うことは、同様に無意味である。我々が知っているのは「私」という「観念」に過ぎないのである。


知覚は何かを知ることであり、知識とは分別のことである。何かを区別する力は、何かを認識する力とは別に存在する。それらは「もの」ではなく、「こと」である。記憶は事象なのであって、「タブラ・ラサ」白紙の状態というのは間違った見解である。つまり、我々は経験と記憶は厳格に区別できないし、記憶は我々に意識を喚起させるが、その契機は定かではない。その理性的なものからの飛躍を我輩は想像力と呼びたい。


「原理」(――それは我々の理性に先行する)は前に投げられるものではなく、立ち返って考察する際に我々が意識する観念にほかならない。D・ヒュームはいみじくも言っている。「思想家にはなりたまえ。だがそのあらゆる思想の中にあって、変わらず人間であり続けることを忘れるな」と。人間の原理(――とかく濫用されがちな「人間性」という概念で捉えてもいいだろう)とは、つまり、そういうことだ。思索という運動が起点と目標を欲するように、問答においては立ち返る場所が必要なのである。正しい問い掛けは問いそのものにゆるやかに立ち返っていく。そして、「はじめ懐疑主義へ導くように見えたのと同じ原理が、ある点まで追求されると、人々を常識へと立ち返らせる」(G・バークリ)のである。


我々がしばしば陥りやすい誤解に、相対主義を客観的なものと看做すことがある。しかしながら、足場を定めない相対主義では、「観る自己」と「観られる自己」という主体と客体の分離が上手くいかない。相対主義はどこにも行き着かない環である。それはソクラテスの時代から変わらない。ソクラテス古代ギリシアの生んだ最大にして最強の“ソフィスト”であった。プラトンの『ゴルギアス』を読めば分かる。ソクラテスは紛うことなきソフィストであった、徹底したソフィストであった。だからこそ、今日の我々と言わず、彼を死においやったアテナイ人たちも、プラトンでさえも、ソクラテスが何者であったかを知らない。「無知の知」とはまさにそういうことだったのだから。

「反知性主義について」(改題)


何か最近、他人の揚げ足を取るようなことばかり書いているような気がしなくもないが、コメント欄がなくて、ブックマークのコメンターたちの指摘もないようなので、修正を促したいので書くのだが、『海難記』というブログの「ニッポンの反知性主義」において、『アメリカの反知性主義』の著者がマルクス主義史家の泰斗E・ホブズボームになっている。正しくはリチャード・ホーフスタッター(――ホーフシュタッターとか色々表記の違いはあるが)である。


それで中身の方もなのだが、アメリカの「反知性主義」という言葉は、かなり特殊なアメリカ史の文脈から捉えないといけないので、他に適用することは難しいのではないかと思う。今年惜しくも亡くなられた斎藤眞先生の『アメリカとは何か』(平凡社ライブラリー)に収録されている「二人の知識人――アメリ反知性主義の文脈」(――19世紀のヘンリー・アダムズと20世紀のC・ライト・ミルズを対比させて論じた面白い小論)が短くまとまっているので、読むことをオススメしたいが、ネット上でも『研究生活の覚書』というブログのエントリを読まれれば、大筋の背景は把握できるのではないかと思う。特に今回の主張に関しては、同ブログの「科学とスピリチュアリズム」、「デモクラシーを愛す」、「UtilityとPracticalの間(1)」、「同(2)」などが大変参考になる。


先の「デモクラシーを愛す」にもあるように、アメリカの「反知性主義」というのは、第一義的にはヨーロッパ風の考え方に対する反発なのである。ド・トックヴィルの時代からアメリカ人は哲学に興味を持たないと指摘されているが、T・ジェファソンのような第一級の知識人(――彼の蔵書は議会図書館に基礎になっている。驚異的なことに確か3万冊ほど蓄えていたはず)ですら、ヨーロッパとアメリカを対比し、前者を専制に支配された、後者がそれから解放された自由の支配する国であると考えていた。ジェファソンの農本主義的なデモクラシーというのは、そうした「特権の否定」の裏面としての積極面なのであり、同様にそうした倫理は学歴主義を排除する。これが反知性主義の側面として指摘される。19世紀前半のアメリカの大学は中世じみたところがあって、一種のジェントルマンや牧師の養成のためにあり、知識の追求という今日我々が想像する大学のイメージとはほど遠いものであった。こうしたことから、近代化されたドイツの大学に留学するアメリカ人が、19世紀において少なくなかった。そのため、19世紀のアメリカの大学改革というのは、ドイツを模範(――大学行政ばかりでなく、たとえば「ゼミナール」形式など)としていることが多い。


当時否定されたのはただ知のみを追求が目的化した知識人だけではない。平時における常備軍の存在も忌避されたのである。19世紀アメリカの対外膨張には眼を見張るものがあるとはいえ、今日のような強固な軍隊を有するに至ったのはローズヴェルト大統領まで待たねばならない。このような社会で必要とされたのは、「精神的・肉体的頑強さと、直接日常生活に役立つ人びと、つまり『ドック』と呼ばれる医者であり、自ら取材し印刷し有用な情報を提供してくれる(フランクリンがそうであったように)ジャーナリストであり、子供の教育の面倒を見てくれる小学校の(多くは女性の)先生であり、孤独な魂を慰めてくれる(しばしば巡回の)牧師」(引用:『アメリカとは何か』)であった。そもそもフロンティアの時代の人口増加率は眼を見張るものがあったとはいえ、それでも人口密度は大変薄かったのである。


こうした伝統がやがてフロンティアの消滅と都市化とによって、変質していくのであるが、1950年代の狂乱的なマッカーシズムの時代にあっても、「反知性主義」というのは、必ずしも反知識を意味したのではないし、オカルト的な宗教的狂信に繋がるわけではない。独立自営の倫理というのは、エリートにせよ、コモンマンにせよ、自らの存在証明を迫る。知的エリートである知識人もまた自らの存在証明を、知識の有用性を問われざるをえない。50年代以前のすでにニュー・ディールの時代から、彼の国では政策科学志向が強いのはそのためである。『ベスト・アンド・ブライテスト』(D・ハルバースタム)の“栄光”と“挫折”というものも、また、良くも悪くもそうした背景から生れた。


少々中途半端だが、誤字指摘程度からはじまった話なので、強引だがこの辺できりたい。手元にある本が少ないので、下手に色々書くと不確かな伝聞を生みかねないので。


●追記
「ツッコミ」だと戯れが過ぎるので、少々まじめなタイトルにかえ、一部加筆修正を加えた。どうやら我輩が指摘する以前に気が付かれたようで、我ながら余計なことをしてしまった。ただ、内容に関して肯うことが出来ない点があるというのも確かである。ホーフスタッターの考え方自体、丸山真男の「亜インテリ論」を想起させて、率直に言って感情的な反発をまず持つのだが、そもそも知識人自体に責任がまったくないわけではあるまい。


たとえば、古くは丸山真男清水幾太郎、昨今では宮台真司氏のように、ある種、運動家的に振舞う知識人たち居るからである。彼らのことを評価しないわけではないが、少々やりすぎだと思う面も多々ある。或は、「反知性主義」の裏返しとも言える「教養主義」(特に大正の)に対して、西尾幹二氏が痛烈に批判したりしていたが(――我輩は八つ当たりの面が強いと思っている。西尾氏の左翼批判の底流に、根っからの文学畑の福田恒存とは違って、ある種の挫折したアカデミストという側面を見る)、一面において的確な部分もあるのではないだろうか。


功利(機能)に対して原理が留保として在ったり、反省を促す再帰的なものであることは、今日強調されてしかるべきであると思うが、しかし、そうしたものは自省的、反省的なものなのであって、それは積極的な意味を持ちうるだろうか。我輩は功利主義万能を支持するものではないが、消極的な性格のものを持ち上げるのも、また、率直に言って気乗りしないのである。

国制に関する思想について


気が付くと前回エントリから一週間以上経っていて、そろそろ四番目を更新せんといかんなあと思いつつ、中々考えがまとまらないでいる。書きながら考えるために、このブログがあるわけだが、読み返してみると、まあ、何と言うか、つまみ食い的なものをあっちこっちに撒き散らしただけという感がなきにしもあらず。読書によって思考を固めると、自分が凝縮させているのか、単に中毒に陥っているのか分からなくなる時がある。


この点、我輩はハイエクの設計主義的設計主義という捉え方をあまり好ましいものだとは思わない。啓蒙主義は設計主義的である点に問題があったのではなく、“先行する何か”に対して無自覚あったという点に問題を見出すからである。ハイエクの自生的秩序にしても、ヒュームの習慣的黙諾にしても、あるいはバークの時効の国体にしても、むしろ社会契約論以上に歴史的事実に立脚している。それらでは、権力や政府の契機性や正当性を説明したことにはならないし、かといって功利主義者のように端からそれを投げ出している(――というか、彼らの理論の必然的帰結として、それらは重要なものと看做されない。この点、我輩は功利主義者にすこぶる不満である)わけでもなく、少々中途半端な印象を受ける。要するに、結果論、帰結主義に過ぎないじゃないかと思うわけである。


先日書店に立ち寄るとド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の岩波文庫版の最終巻が平積みされていたが、我輩はデリダみたいなハイデッガーの二番煎じやら、ラカンみたいなフロイトの残り滓やらを読むくらいなら、十九世紀の思想に今一度向き合ってみる必要があるのではないかと思っている。ハイエクの設計主義的合理主義と自生的秩序の対比にしても、すでにJ・S・ミルが『代議政治論』において射程に収められている。彼は実用的な技術として考案されたものと看做すベンサム的な功利主義と、政府を一種の自然の産物と看做し、政治学を自然史の一部門と見る保守主義やヒューム的な功利主義の超克を目論んでいた。この種の政治制度に対する背反する二つの見方の延長線上に、基礎付け主義と反基礎付け主義があるのではないかなと考えているのだが、ローティなど最近の思想はあまり熱心に読んでいないので、正直なところ良く分からない。後者は倫理における「Cause」の意味が、目的と原因(手段)との間の分離がほとんどないという意味で、基礎を欲しないのだろうか。


ところで、中島岳志氏が『アルファ・シノドス』の「保守・右翼・ナショナリズム」というセミナーで、「国民の側からの国家への禁止の体系が憲法なのであり、義務などを盛り込みたがる右翼や保守は憲法を知らないというふうに指摘されておられるが、たとえば、アメリカの連邦憲法などは列挙条項式、すなわち「議会は徴税権を有する」のような、「政府は何々することができる」式の憲法であって、中島氏のような考えは必ずしも一般化出来ない。あるいはそうした考えは社会権生存権など、いわゆる積極的自由権を当然否定しなければ、論理としての一貫性が失われる。この辺の自覚が宮台氏などもかなり薄いのではないかと見られる。


また、「イギリスの場合は成文憲法がない。なので、歴史が律しているという判断のもと、それを担保する何かがしっかりしているという大前提がある。歴史によって今の政府が牽制・規制されているから、その歴史からの逸脱は許されないということになっている」とあるのだが、これもまた誤解を招きかねない表現である。「成文憲法」がないという表現だと分かりにくいのだが、「成文憲法典」つまり、特別な単一の法典としてまとめあげられていないと言った方が分かりやすいのではないかと思う。ブログなどウェブ上の言説を読んでいて見かけるのだが、イギリスは不文憲法なので憲法改正が出来ないと思い込んでいる方が少なからずいらっしゃる。これは大きな間違いで、イギリスの憲法は通常の議会の制定法の内、特定のものをピックアップしているだけで、当然のことながら議会の制定法の範囲内であれば改正も廃止も可能である。モンテスキュー以来、ハイエクに至るまで、イギリスのコモン・ローを妙に美化する人々が居るのだが、我輩は単に特殊イギリス的な体系に過ぎないと考える。


我輩が中島氏に抱く最大の不満は、彼の保守主義観(――というよりは思想史解釈の違いか)が、あまりに無難でつまらないことだ。いい加減、E・バークから導入する議論は正直飽きたし、そもそも、それでは近代保守主義しか収まらない議論なのではないかと思う。或は保守主義といっても、同時代のド・メーストルと対比してみても、違いが少なくないことが分かる。また、バークは明確に保守主義という名称をもって掲げたわけではないし、そもそも彼の著作に「Conservative」という言葉は頻出しているわけではない。つまるところ、革命以後の保守主義者バークと以前のホイッグ最左派バークとをどう考えるかという問題がある。あるいはトーリー史家ヒュームとの連続性をどう見るか。ヒュームは政治的にはホイッグだったが、歴史家としては『イングランド史』において、バークをはじめホイッグが賞賛してやまなかった「古来の国制」、ノルマン・コンクェスト以前に自由な社会があったという歴史観を否定している。単純に言えば、社会進化論に近い考え方をしていたようだ。


イギリスの憲法といえば、瀧井一博氏がジェームズ・ブライスの「Flexible Constitution」と「Rigid Constitution」について、「軟性憲法」と「硬性憲法」と訳すのは、「Flexible and Rigid Constitution」におけるブライスの考え方に照らすと間違いで、それらは「柔軟な国のかたち」と「硬直した国のかたち」と訳すべきなのだと述べておられた。瀧井先生の『文明史のなかの明治憲法』のよいところは、伊藤博文山県有朋をバランスよく評価されていることだが、このブライスの「国のかたち」の議論を広げれば、前者が伊藤であり、後者が山県ということになるのだろう。先の言葉を少々硬い表現でなおせば、「動態的憲法観」(伊藤)と「静態的憲法観」(山県)になるだろうか。


我輩は今日の護憲派を自任する平和主義者が後者の憲法観に凝り固まっていることを危惧する。いみじくも福田恒存が言ったように、それでは法律の条文を守ることはできても、憲法を守ることも憲政を営むことも出来ない。現行憲法を守りたいのであれば、論理的帰結として、なおのこと改正が必要なのではなかろうか。つまり、欽定憲法の呪縛を解くためには我が国の君主制の廃止しなければならない。現行憲法という二枚舌は国民主権と定めながら、実際には国事行為なる統治行為を天皇に担わせている。NHKスペシャルで民間の憲法案を元にしたり、適正な改正手続きに則ったという点を強調した憲法制定史の番組を放送していたが、しかし、それらを強調すればするほど主権の変更問題が表面化せざるをえない。したがって、我輩は二者択一しかないと考える。即ち国民主権を採って君主制を棄てるか、君主制を採って国民主権を棄てるか。我輩は「国民主権」なんぞに拘らず、「君主主権」の「君民同治」で良いじゃないかと考えているが、民意が前者を選ぶならば、それも致し方なし(廃位ではなく、革命式に吊るすという選択であれば、我輩は断固拒絶する)と思う。何れにせよ済し崩し的にやるのはやめて欲しいものである。

「日韓併合」という変な名称について思うこと


この種の話題は扱いが難しいが(――とは言っても、この種の話題に“政治的”という枕詞を付けることを我輩は好まない)、こちらのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20080521/p1)と、それ以前の関連する三つのエントリに関して少々の雑感と覚書を記しておく。


瑣末事と言われるかもしれないが、第一に我輩が違和感を覚えるのは、「日韓併合」なる奇妙な名称である。併合(併呑)されるのは韓国であって、日本ではない。したがって、「韓国併合」と記すのが正しい。そもそも「日韓併合条約」なる条約など存在しない。「韓国併合に関する条約」である。はてなキーワードは二種類に分かれてしまっているが(――統合されることが望ましい)、ウィキペディアはちゃんと「韓国併合」一本になっているようだ。誰が広めたのかは知らないが、困ったことである。言葉として「日韓合邦」ならまだしも理解できるのだが、前記条約にもあるように、「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」という、事実上の“吸収合併”なので、対等合邦とは言い難く、やはり「韓国併合」という名称で統一すべきであるように思われる。呉善花女史が韓国併合肯定論として書いた本の名前も、ちゃんと『韓国併合への道』(文春新書)になっているのだが、ところどころ「日韓併合」と記されている箇所が見受けられる(――この種の表記のブレは編集者の責任の方が重いのかもしれないが)。なお、本自体の評価としては、巻末の参考資料を見ると、一応、一次史料(――とは言っても公刊史料ばかりだが)には当たっているようなので、ある程度信頼してもよいように思われる。


誰が言い始めたのか知らないが、そもそもこの「日韓併合」という言葉に、ある種の後ろめたさの反映があるような気がしなくもない。まあ、一番可能性として高そうなのは、韓国での名称が最近になって逆輸入されたといったところか。肯定的でも優越的でもなく、単なる事実として日本の植民地経営は、西洋のそれと異なる点が少なくない。内地と外地とで差別されていたとはいえ、台湾や朝鮮は日本の統治権が及ぶ地域であり、狭義の植民地とは言えない。むしろ、委任統治領であった南洋諸島や、満鉄沿線や租借地などの南満洲などが、西洋的な植民地の典型例としては指摘しやすい(――無論、実態としてやってることに大差がないわけだが)。この特異性の“解釈”の問題が、今日の所謂「歴史認識問題」の一つとなっているのだろうが、台湾にしても朝鮮にしても、すんなりと日本の統治を受け入れたわけではない。たとえば、併合後の三・一運動の時は、当時の軍関係者もやばいと思ったらしく、朝鮮軍指令官の宇都宮太郎が参謀総長の上原勇作宛にこんな手紙を送っている。

「軍隊は五百二ヶ所に分屯、警備と人心の安定とに努めある次第に御座候。しかし、軍隊の威圧一方にて根治を得んことは素より不可能に付き、小康を得たるを機として根治の方向に一歩進めたらば如何との感これあり申候。要はこの朝鮮を将来いかに統治すべきやが根本問題にして、その第一は遠き将来には内地と同様なる府県制を実施して全く内地と同一の取扱を為すべきや、第二に、民度などを顧慮して漸次に自治を与え、終には一種の自治植民地として統治すべきやの二点が根本問題になるべく」(『上原勇作関連文書』『歴史をつくるもの』上巻 中央公論新社より孫引き)

  

今日の我々より遥かに身近な問題であり、であるからこそ、現実的な認識と所在を求められた当時の権力者たちに、夢物語的な併合肯定説など存在しようがない。あるのは単純に危機感か、武断かのどちらかである。あるいは民間のアジア主義を見ていても単純ではない。『大東合邦論』(1893)の樽井藤吉ですら、「日韓聯邦の議」(1907)において「第一、現今朝鮮を保護国と為すも其保護料を取るにあらざれば、我日本は損するのみにして益する所なし。聯邦と為すに於ては其政費を分担せしむることを得」と述べている(――参照したのは古田博司『東アジア・イデオロギーを超えて』新書館 だが、直接指摘したのは上村希美雄『宮崎兄弟伝――アジア篇(中)』葦書房)。さらに、古田氏は同書の分析において、松本健一氏や田中明氏の言説を引いて、「アジアの中でいち早く近代化イコール西洋化に成功し、アジアを捨てて西洋に近づいていったという、日本人の負い目の意識が表出する。そしてアジアを侵略し、植民地支配した『裏切り者の覇者』という咎が、『内鮮一体』や『皇民臣民化』という偽の連帯を政策とした、アジア同化政策へと朝鮮総督府を駆り立てていったものであろう」と指摘している。この種の後ろめたさと言うか、断絶感、或は独特の歪みのようなものが左右を問わず、この手の論者には多いように思われる。


●背景的なものについて短い覚書


韓国併合の前後というのは台湾経営(児玉・後藤、1898〜1906)がちょうど軌道に乗った頃である。この成功に自信を持ち、朝鮮の植民地開発も上手くいくと思ったのが後藤新平とか、桂太郎といった人々(立憲同志会)である。一方で、大陸に進出に一貫して慎重だったのは伊藤博文(シナ本土との貿易中心)であり、両者の中間として「主権線と利益線」(軍拡)の山県有朋と国内政策重視(軍縮)の政友会が置かれよう。なお、従来、三谷太一郎先生をはじめとして、鉄道敷設に熱心だったのは政党内閣(特に原敬、政友会)だったとされてきたのだが、実は最も鉄道敷設(km換算で)したのが第二次桂内閣であり、逆に軍備拡張したのは第一次西園寺内閣であったことから、小林道彦氏が、桂太郎立憲同志会、さらには桂園体制を、従来とは異なる位置付けで理解し、評価を下している(詳しくは同氏の『日本の大陸政策』或はミネルヴァ日本評伝選桂太郎』を参照のこと)。


覚書というには長くなってしまい、内容も(後半は特に)中途半端だが、この辺で筆を擱く。朝の頭の体操にしては少々ハード過ぎた。なお、我輩は単なる本読みであり、読書人レベルの知識しか記していないので、ここまで読まれた方は、各々の関心にしたがって図書館に行ってくだされ。今日の覚書で参照に引いたものの他では、井上寿一アジア主義を問いなおす』(ちくま新書)、木村幹『朝鮮半島をどう見るか』(集英社新書)、伊藤之雄政党政治天皇』(講談社「日本の歴史」第二十二巻)あたりが、専門書なら北岡伸一日本陸軍と大陸政策』(東大出版会)あたりが定番と言えるのではなかろうか。それにしても、日本近代史の転換点となった坂野潤治先生の『明治憲法体制の確立』からかれこれ四十年近く経つのに、斯くも普及せんのは何でだろう。ミネルヴァ日本評伝選の『桂太郎』とか無茶苦茶面白いのに、アマゾンにレビューが一つもない。もったいないなあ。

自由主義の難しさ


最近、カントやらルソーやらを読み直しているのだが、如何せん発想が古い。もちろん、そうでない部分も多いが、それはどちらかというと新しい古いではなく、普遍的な問題なのであろう。カントの『永遠平和のために』(訳中山元光文社文庫)を読んでいて驚かされたのだが、カントは共和制を高く評価しているが、デモクラシーは民主的専制として区別している。カントにとって共和制と民主制は純粋に制度上の問題で、立法府と行政府が分立しているものを共和制と呼んでいるようだ。つまり、カントにとって今日の多くの民主制国家は専制国家なのである。しかし、良く知られているように、アメリカ型の厳格な三権分立というのは、他国ではあまり見られないモデルである。何しろ「政令」すら発することができないので、議院内閣制に比べると大統領権限が弱すぎるのである。したがって、フランス型のハイブリット(折衷)型の大統領制が多い。まあ、カントが言わんとせんことは分からないでもなくて、要するに立法と命令を峻別するべきか、否かという問題なのである。ルソーの『社会契約論』では命令は法律じゃないと言い切っていて、おそらくこの影響下にあるのだろう。


ルソーといえば、東浩紀氏の「一般意志」は何を言いたいのか、いまいち分からないでいた。まあ、図書館に入ることを期待して、二度の立ち読みですませた好い加減な読みのせいもあるのだが、ようやく分かってきた。紙屋研究所の高雪子の書評「『思想地図』創刊記念シンポジウム『国家・暴力・ナショナリズム』」を読んで、ようやく合点が行くものを掴めた気がする。

彼がモデルとしているイメージは「市場」であり、「ネット」です。


「たとえば、ルソーの一般意思を、じつは社会契約論でも何でもなく、市場が実現するものとして考えられないか。たとえば、ある財を購入する行為は、消費者は自分の欲望だけで動いているわけだけど、結果的には一つの意思表示になっている。そしてそれが集約されて市場が資源配分を決定する。それをルソーの一般意思と繋げて考えられないか。言い換えれば、ルソーをロールズからではなくハイエクから読み直せないか」


なぜわかりにくいルソーの「一般意思」を前半にもちだしてきたのかと思ったらこういうことだったのか。たとえば、Googleによる世界政府という思考実験があるわけですが、あるアルゴリズムにしたがって検索の順位を出していくシステムみたいにして意思決定をする、というようなことは一つのイメージになるかもしれません。あるいは、たとえば集めた税金を、市場的な行動の結果最適解が導かれそれによって配分する、みたいなことをイメージしているのでしょうか。


結論から言うとそれはルソーでもなく、ハイエクでもなく。こてこての『蜂の寓話』的世界観ないし自由主義ではないか。「私悪が公益を生む」というB・マンドヴィル(オランダ生まれのフランス人でイギリスに移住、アダム・スミスに強い影響を与えた)の思想そのまんま。あるいは功利的な自由主義者D・ヒュームの「習慣的黙諾」とその延長線上にあるハイエクの「自生的秩序」論など。噛み砕いて言えば、部分の散漫な集積体をそのまま放置していても、自然に統一ある全体ができあがるのが自由主義的な考え方であり、それは社会の成員がめいめいの利己心を発揮して、その欲望が充足される世界(観)とでも言えるだろうか。ちなみにハイエクはルソーのことが嫌いだったらしく、ルソーの翻訳者でもある桑原武夫が、ハイエクが来日した際に、ハイエクがフランス語を流暢に話すのを見て、ルソーの話題を振ってみたら冷たくあしらわれてしまったことが、ハイエク今西錦司の座談会本『自然・人類・文明』の桑原による感想に記されている。ハイエクさんは『告白』の作者にあまり好意的ではなかった」というしょんぼりした一文には、桑原先生には悪いのだが笑ってしまった。


あだしごとはさておきつ。実はこの手のマンデヴィル的な私欲肯定論、私欲の道徳化にルソーはかなり反発していたらしく、『人間不平等起源論』で反論を試みている。以下は岩波文庫からの引用。

奢侈は、自分の安逸と他人からうける尊敬とに飢えている人々にあっては、予防できないものであり、やがて、それはこの社会が始めた悪を完成する。そして、本来作ってはならなかったはずの貧乏人を食わせてやるという口実のもとに残りのすべての者を貧しくし、おそかれ早かれ国家の人口を減少させる。


奢侈は悪を治癒すると称しているが、その悪よりもはるかに悪い療法である。というよりは、それ自身が、大小を問わずどんな国家においても、あらゆる悪のなかの最悪のものであり、それは、自分で作りだした無数の下僕やくだらない奴を養うために、農民や市民を圧迫し、滅亡させる。それはちょうど青々とした草や木に害虫をはびこらせて、有益な動物の食物を奪い、その気配のするあらゆる場所に、飢饉と死とをもたらすあの南方の熱風にも似ている。


社会とそれが生みだす奢侈から、美術工芸や、商業や、文学や、その他の産業を栄えさえ、国家を富ませ、はては亡ぼすあの一切の無用の長物が生れる。この衰退の理由はきわめて簡単である。農業はその性質からいってあらゆる技術のうちでもっとももうけの少ないものであるはずだということは容易にわかる。というのは、その生産物は、すべての人間にとって、どうしても使用しなければならないものであるから、その価格は、もっとも貧しい人たちの能力につりあっている。その同じ原理から、ひとは次のような規則をひき出すことができる。すなわち一般に技術はその効用性に反比例して利益があり、もっとも必要なものが、かならず、結局はもっとも顧みられなくなることである。これによって、産業の真実の利益と、その産業の進歩から生れる現実の効果とについて、どう考えるべきであるかがわかる。


ルソーの言うことは全部正しいとはまったく思わないが、今日の経済における貧困問題や食糧問題に関して中々示唆であると思う。ルソーは同時代の思想家でも特に矛盾が多く、集団主義者ルソーと個人主義者ルソーとの断絶はことに有名であるが、我輩は個人主義者ルソーに重きを置く読みの方を支持している。東氏も存在論など抽象的な思弁をなす時には、我輩にとっても未だ達せざる頂をのぞむが如き存在なのだが、昨今はどうにも荒が目立つ議論をしている。あまつさえ、ブックマークのコメントを眺めていると、「なんでこんな自明のことを東氏が一生懸命説明しているのかよくわからない。/術語の定義をおさえないで適当にモノ言う人が悪いのか、それとも術語を避けて通れない専門家の方に責任があるのか」などと言う人が居て、何とも言い難い気持ちにさせられる。蓋し「信頼」が何に担保されているのか、我々はもっと考察を深めるべきかもしれない。

 シナを思う


四川周辺で起こった大震災は、時間が経てば経つほどに、我々の想像を超えるような被害を生み出しているようである。老婆が呆然と倒壊した家屋を見つめ、青年が険しい表情のまま凍りついている立ちすくみ、手を小さく震えさせている姿など、画面越しながら深く刻み込まれるものであった。あの春節の大雪の比ではない、この未曾有の大惨事に対して、中共政府の手際は、お世辞にも褒められたものではない。あらゆる政府にとって、最も罪深いのは、腐敗していることでも、独裁を布くことでもなく、無能であるということである。たとえば、ビルマの軍政は、腐敗し堕落した独裁政権であるが、その最大の罪はサイクロンの被害を徒に拡大させている無能さにこそある。


制限された報道の自由のもとで活動する、かの国の操觚者をして、「何故政府の建物だけが残っているのだ」という憤りを、記者会見という公然の場にてぶつけさせるに至ったことは、事態の重大さを伝えてあまりある。三百万の世帯が家を失い、一千万の人民が被害を受けるという惨事に、十数万の人民解放軍を動員し、人海戦術を以ってこれに当たるも十全ならず。窮するに至って、遂には我が国の人的救援の申し出を受ける。これを以って、「遅きに失したり」という声あり。曰く、「人命を軽んじ、閉鎖主義を貫き、取るに足らぬ国粋をとって、国際救助隊を拒む愚策なり」。然り。されども、これを小さな価値ある一歩であると我輩は思う。


関東大震災の折に派遣されたアメリカの援助隊が、ちゃっかりと東京湾の測量をしていたことを彼等は知らぬわけではあるまい。かの国では僅か三十年あまり前には、幹線道路の20kmごとに歩哨が置かれ、国内の移動にも国内用のパスポートが必要であり、空爆を恐れて夜間の点灯規制が布かれていた。我が国のODAによって立派な空港が造られるまで、かつての北京空港のまわりにはほとんど灯りが存在せず、先の規制によって街灯がほとんど設置されず、あっても裸電球がぽつぽつとある程度、あまつさえ車が灯りを点して走ることを禁じていたほどである。


斯様なほどに不信感が渦巻いておった大地に、外国の派遣が受け入れられたという事実は、たとい遅きに失したとはいえ、評価すべきことではあるまいか。此度の救済にはほとんど役に立たぬやもしれぬ。されど、受け入れた事実は確かに残るのである。


そもそも、かの大地はあまりに広い。此の震災の被害が確認されておる範囲だけでも我が国の九州よりも広いそうである。そのような広い大地では、人間など極々小さな点がへばりついているようなもの。道路はあちこちで寸断され、三国志で描かれる蜀の険しい山々が広がる。その中で孤立した被災者が暴動を起こさぬように、物資を最優先で届けねばならぬ。ろくな機械もなく、人海戦術に頼るしかない状況に、優れた専門の救助隊員が向かっても、機器が揃っていなければただの宝の持ち腐れである。即座に受け入れられたとして、この混乱した状況でどれだけ救えたかどうか。救い出すだけでなく、救い出された者の健康の維持もまた急務であり、しかも能力に比して多大な重荷となっているのである。


徒に中共政府を責めたところで、何の救いにも、今後の教訓にもならぬ。それよりは、今回の遅く、また実にささやかな規模の救援隊ではあっても、それを受け入れたという点に、かすかな希望を見出しうると思いたい。その遅々とした、しかれども着実な一歩によって、緩やかに国際的協調の秩序の中に、かの国を収め(――ジョージ・ケナンの言うところの「Containment」)ていかねばならぬ。国際政治とは理念ではなく、こういう一歩一歩の積み重ねにこそあるのではないか。